第十八回NG
翌日、蓮はかなり早く撮影現場へ入った。
三月の東京には、まだ冷たさが残っていた。屋外での撮影は、一度立つだけで数時間になる。スタッフたちは指先がかじかんでいた。蓮は伊織に前もってホットココアを買わせ、現場のスタッフ一人一人に配った。
紙コップを受け取った照明スタッフたちは、数人そろって少し驚いた。
「佐伯さん、細かいところまで気がつきますね」
「ありがとうございます。ちょうど寒くて参っていたところです」
蓮は軽くうなずくだけだった。
こういう小さなことが、俳優をすぐ好きにさせるわけではない。けれど現場の空気を少し和らげるには十分だった。
撮影が正式に始まった。
「私、浅野真澄は、お前に何一つ借りはない」
蓮は長剣を手にし、その切っ先を旭へ向けていた。
画面の中の彼の目は冷たく、深い恨みを押し殺している。表に浮いた怒りではなく、心の中で長い年月燃え続けたものだった。モニターの後ろに立つスタッフたちは、その瞬間ほとんど引き込まれた。
彼はもう佐伯蓮ではない。
劇中の、孤高で冷たく、旧い恨みを背負った浅野真澄そのものだった。
旭が演じる速水弦は冷笑する。
「この数年、私がどのように生きてきたか、お前にわかるのか」
彼は刀の柄を握りしめた。
「口を慎め。命を置いていけ」
二人は一瞬で斬り結んだ。
刃がぶつかり、澄んだ音が響く。アクション監督はモニターを見つめ、内心でうなずいた。二人の私的な関係がどうであれ、画面の中の芝居には確かな緊張感があった。
台本では、この場面で速水弦が一時的に優位に立ち、浅野真澄を一掌で川へ落とす。水面が静まったあと、真澄は水中から飛び上がり、速水弦へ真っ直ぐ斬りかかる。そこへヒロインの橘紗良が駆けつけ、速水弦の代わりに致命の一撃を受け止める。
だが実際の撮影では、旭が突然何かにつまずいたように見えた。
本来なら蓮の胸へ当てるだけの掌が空を切り、ワイヤー担当が調整する暇もなく、蓮の身体はそのまま川へ押し出された。
冷たい川水が、一瞬で衣装を浸した。
寒さが針のように骨へ刺さる。
準備はしていた。それでも蓮は一瞬、呼吸の仕方を忘れかけた。
五秒は長くない。
だが水の中では、その五秒が一世紀のように引き伸ばされる。
スタッフに引き上げられたとき、蓮の唇はすでに白くなっていた。
旭がすぐに近づいた。
「すみません。今、何かにつまずいたみたいで。もう一回お願いします」
蓮にはもう、音が少し遠く聞こえていた。
寒さが身体全体を支配し、彼はスタッフの指示に従って、また元の位置へ戻ることしかできなかった。
水野がモニターの後ろから立ち上がった。
「蓮、大丈夫か」
蓮は不快感をこらえ、少し笑ってみせた。
「大丈夫です」
落水シーンは、どのみち撮る必要があった。
自分のせいで進行を遅らせたくなかった。
だが蓮が体勢を整えても、朝比奈旭はずっと調子を掴めないようだった。手が滑る。立ち位置がずれる。表情が足りない。台詞のテンポがずれる。
このシーンは十数回撮っても、まだ通らなかった。
蓮は自分の体温をほとんど感じられなくなっていた。
時間を節約するため、肌に触れる衣服は濡れたままだった。外側の衣装だけをスタッフが温風機で雑に乾かしている。風が布を撫でるたび、少しだけ温かい空気が立ち上る。けれど身体の奥までは届かない。
伊織は何度も止めようとしたが、そのたび蓮に制された。
これは復帰後の最初の作品だ。
水野が心血を注いだ新作でもある。
自分のせいで現場を止めたくない。
蓮は旭を見た。
旭はうつむき、申し訳なさそうな顔をしている。目元には涙まで浮かべているように見えた。
「本当にすみません、蓮さん。どうしても調子が出なくて。次は必ず通します」
蓮は何も言わなかった。
この若い主演俳優が、なぜここまで手間をかけて自分を消耗させようとするのか、蓮にはわからなかった。
注目度かもしれない。役かもしれない。あの事故のあと、ファンや媒体が蓮を称えたことかもしれない。
ただ今は、追及する気になれない。
蓮にとって何より大切なのは、この作品を演じ切ること。そして清司に一刻も早く宵宮朔を見つけさせ、血契を解くことだった。
「まだ立っていられるのか」
清司は蓮の隣に立ち、誰にも見えないのをいいことに、少し冷ややかな声で言った。
蓮は見なかった。
ただ位置を調整し、次の本番を待った。
「『雲中縁』第五場第六カット、第十九回。アクション」
今度、旭は明らかなミスをしなかった。
ただ彼の手には、林家に伝わる指輪という設定の小道具があった。縁には小さな突起がある。軽く触れるだけなら、何の感触もないはずだった。
その掌に、やけに強い力がこもっていた。
突起が蓮の皮膚へ食い込む。
ワイヤーの動きに合わせ、蓮はまた川へ落ちた。
だが今度は、あの寒さを感じなかった。
温かな水流が四方から蓮を包み、冷たい川水とのあいだに膜を作るようだった。
蓮は苦労して目を開けた。
清司が彼の上に浮かんでいた。
水流は白髪の妖狐を避けるように流れている。清司の掌から温かさが伝わり、少しずつ蓮の身体を守っていた。
蓮はただ彼を見つめた。
清司がなぜそんなことをするのか、わからなかった。
清司が手を上げた。
次の瞬間、蓮は上へ押し上げられる力を感じた。台本どおりの動作に合わせ、彼は川辺の柱の上へしっかりと着地した。
「カット」
水野の声が響いた。
このテイクは、ようやく通った。
蓮は最後まで持ちこたえたが、身体はもう限界だった。視界が黒くなり、倒れかける。
清司は横に立ったまま、彼を直接地面へ落とさなかった。
蓮が次に目を覚ましたとき、彼は休憩室に寝かされていた。
伊織がそばに座り、目を赤くしている。
「蓮さん、やっと起きました」
蓮の第一声はこうだった。
「通ったか」
伊織は呆れて笑いそうになった。
「通りました。何回も水に落ちて、また病院に行くところだったんですよ。わかっていますか」
蓮が顔を向けると、清司はソファに横になり、片脚をだらしなく乗せ、どこから折ってきたのかわからない枯れ草を口にくわえていた。
「伊織」
蓮は低く言った。
「外の進行を見てきてくれ」
伊織はすぐに焦った。
「まさか続けるつもりですか。今の状態で撮ったら、本当に倒れます」
蓮は目を閉じた。
「みんなの足を引っ張れない」
伊織は、彼を止められないとわかっていた。
仕方なく外へ出て、扉をしっかり閉めた。休憩室にようやく溜まった暖気が逃げないようにするためだった。
部屋は静かになった。
蓮は清司を長く見た。
「ありがとう」
清司は目を開けなかった。
「自分を買いかぶるな」
気だるげに言う。
「ここまで使った力を無駄にしたくなかっただけだ」
言い終えると、彼は寝返りを打ち、眠ったようになった。
蓮はソファの上の妖狐を眺めたまま、少しぼんやりした。
普段の清司には、いつも邪気がある。今にも何かを踏み潰しそうな危うさがある。だが今は目を閉じ、長い睫毛を落としていて、危険なところは少しも見えなかった。
記憶をねじ曲げ、空間を封じ、人の命を気にも留めない姿をこの目で見ていなければ、蓮は目の前の男とあの妖狐を同じ存在だと思えなかったかもしれない。
「蓮さん」
扉が開いた。
朝比奈旭が入口に立ち、顔いっぱいに申し訳なさを浮かべている。
「すみませんでした。何度も水に落とすつもりは本当にありませんでした。今日はずっと調子が悪くて」
蓮は視線を戻した。
「気にしていない」
旭の目は、疑うのが難しいほど真摯に見えた。
けれど蓮は、もうそういうものをあまり気にしなかった。
誰かが自分を害そうとしているのかどうかに、深く関心を持てない。芸能界の暗い流れを掘り下げたいとも思わない。ただ清司が現れてから、自分がかろうじて支配できていたものまで、すべてずれ始めている。
ソファの妖狐が、夢で嫌なものを見たように眉をひそめた。
蓮は彼を見つめ、初めて疑問を覚えた。
彼はいったい何なのか。
何を経て、ここにいるのか。
旭が気まずさを悟って去り、扉の隙間から冷たい風が入ってきて、ようやく蓮は我に返った。
自分はどうしたのだろう。
なぜ急に、あの妖狐に興味を持ったのか。
おそらく、清司の温かな水流のせいだ。
その後の撮影で、蓮に明らかな不調は出なかった。むしろ精神が戻り、感情もよく乗った。先ほどの小さなトラブルを除けば、一日の撮影はおおむね順調に進んだ。
宣伝チームはすぐに、撮影現場のスチールを何枚か撮った。
その夜には、顔がよく、体格も整い、目の芝居が強いこの俳優に、ネットで目を留める人が少しずつ増え始めた。
伊織はその勢いを逃さず、蓮に一つバラエティ番組の仕事を入れた。
番組は『雲中縁』の主要キャストをまとめて招いて収録するものだった。露出を増やすためでもあり、後半の展開に向けた話題作りでもある。
その番組はトップクラスの人気番組ではない。けれど視聴率は安定しており、多くの一般人と接触する企画もある。
清司にとっては、宵宮朔を探す機会だった。
番組側は出演者を二チームに分けた。
一組は主演の朝比奈旭とヒロインの篠原雪乃。もう一組は男二番手の俳優と蓮だった。
第一ラウンドの課題は簡単だった。
決められた時間内に、道行く人からできるだけ多くのミルクティーをもらう。ただし芸能人であることを明かしてはならず、スタッフに頼むこともできない。
蓮は歩道を歩き、ミルクティーを手にした女性に声をかけようとしていた。
清司が突然足を止めた。
次の瞬間、彼は街角のほうへ駆け出した。
蓮はほとんど迷わず、その後を追った。
俳優になってから、彼はずっと身体を鍛えている。体力にはそれなりに自信があった。清司は妖怪だが、カメラの近くでは術を頻繁に使えないらしく、蓮でもどうにか追いつける。
本当に苦しんだのは、同行ディレクターだった。
十キロ以上あるカメラを担ぎながら、半ば強制的に走ることになり、息が切れそうになっても職業意識だけでレンズを蓮へ向け続けた。
清司は最終的に、あるミルクティー店の前で止まった。
彼はその場に立ち、空気に残った匂いを慎重にたどった。
薄い。
だが、確かだった。
宵宮朔だ。
蓮は、清司がまたいつもの無感情な顔に戻ったのを見て、彼がまた間に合わなかったのだと知った。
同行ディレクターは後ろで息も絶え絶えになりながら、それでもカメラを構えていた。
蓮は申し訳なさそうに、彼へ軽く頭を下げた。
それから振り返り、ミルクティーを買ったばかりの若い男性を呼び止めた。
「少し走ったので、喉が渇いてしまって。すみません、現金もスマートフォンも持っていないんです」
蓮は真剣な顔で彼を見た。
「ミルクティーを一杯、ご馳走してもらえませんか」




