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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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11/32

暴走するレンズと、隠り世の境界

蓮に呼び止められた若い男は、見るからに機嫌がよさそうだった。


 片手にはタピオカミルクティーの店で買ったばかりの袋を提げ、もう片方の手では隣にいる女の子の手を握っている。女の子は、蓮に突然声をかけられて驚いたのか、反射的に男の背中へ隠れた。けれど頬ははっきり赤く染まっていて、たった今告白を受け入れたばかりの、まだ関係の変化に慣れていない照れくささが隠しきれていなかった。


 男は蓮を見て、それから自分の手にあるミルクティーの袋を見た。短く目を瞬かせたあと、すぐに笑った。


「それだけ?」


 彼は袋を蓮の前に差し出した。


「いいよ、持っていきなよ。今日は気分がいいから、十杯でもおごれる」


 蓮は一瞬、反応できなかった。


 もともとは、番組の課題をこなすための口実だった。清司が突然、宵宮朔の残り香を追ってここまで走ってきたせいで、蓮は半分ほど商店街を駆け抜ける羽目になった。後ろでは番組の同行ディレクターがカメラを担いだまま、息も絶え絶えになっている。清司がミルクティー店の前で足を止め、朔の気配が薄れたと確認したところで、蓮がカメラの前で「見えない妖怪を追っていました」と言えるはずがない。


 だから蓮は、とっさに通行人を呼び止めた。走ったあとで、財布もスマホも持っていないから、ミルクティーを一杯買ってもらえないか。そう頼んだだけだった。


 まさか、こんなにあっさり承諾されるとは思わなかった。


 若い男は蓮が受け取らないのを見ると、少し照れくさそうに頭をかいた。


「本当にいいんだよ。今日、彼女がやっと付き合ってくれるって言ってくれたんだ」


 そう言って、彼は隣の女の子を振り返った。目には隠しきれない喜びがあふれている。


「だから、ちょっとお祝いしたくて」


 女の子はさらに顔を赤くし、彼の袖を軽く引いた。見知らぬ人の前でそこまで言うのは恥ずかしい、という仕草だったが、その手を離そうとはしなかった。


 蓮はミルクティーを受け取った。清司がまた宵宮朔を逃したことへの沈んだ気持ちが、この二人の幸せに少しだけ和らいだ気がした。


「それはよかったですね」


 蓮は二人をまっすぐ見つめた。


「お幸せに」


 女の子が小さく「ありがとうございます」と言った。


 暗がりに立っていたカメラマンが、ようやく息を整えた。汗を拭きながらも、カメラを向けることだけは忘れていない。蓮が走り、通行人に声をかけ、偶然にも告白成功直後のカップルに出会い、そのまま課題を達成する。そんな自然な素材は、番組側が用意した笑いどころよりもはるかに使いやすかった。


 男二番手チームは、それで第一ラウンドに勝利した。


 次の課題は、二組がそれぞれ街の中に紛れた番組側のNPCを探し、相手と合言葉を合わせるというものだった。ルール自体は珍しくないが、リアリティ番組には向いている。出演者は街を観察し、人に話しかけ、探りを入れ、その過程で思いがけない素人の反応にも出会う。


 蓮は勝ち負けにそれほど執着していなかった。


 収録前、番組ディレクターは遠回しに言っていた。今日の宣伝の中心は、あくまで『雲中縁』の男女主役だ、と。蓮の注目度は最近かなり上がっているが、ドラマの宣伝軸を完全に奪ってはいけない。三浦伊織も、バラエティでは印象を残していいが、主演二人の見せ場をすべて奪うなと念を押していた。


 蓮は理解していた。


 もともと、目立ちたがる性格でもない。


 同じ男二番手チームの相手と別れたあと、蓮は商店街をゆっくり歩いた。通りには人が行き交い、ミルクティー店、雑貨屋、ゲームセンター、小さな書店が同じ通りにひしめいている。若者たちが三人、四人で蓮の横を通り過ぎ、時折ちらりと見ていくが、帽子とマスクのせいで、すぐには気づかない。


 清司は蓮の隣を歩いていた。


 普通の人間には見えない。


 九尾の妖狐は番組の課題になどまるで興味がなく、時折人混みに目を向けるだけで、ほとんどは面倒くさそうに半目を伏せていた。午後の日差しに当てられて、少し不機嫌になっているようにも見える。


 蓮はカフェの前で足を止めた。


 後ろの同行ディレクターは、もう限界に近かった。蓮は彼の額に浮いた汗を見て、店のドアを押した。


 ドアベルが小さく鳴る。


 店内はそれほど混んでいなかった。窓際には制服姿の女子高生が二人座り、苺のケーキを分け合っている。反対側では大学生らしき数人がスマホを見ており、壁際にはノートパソコンと飲みかけのアイスコーヒーを置いた会社員が二人いた。


 同行ディレクターは、蓮がただ疲れたのだと思ったのか、止めなかった。休憩の映像には大きな爆発力はないが、番組の緩急を整える素材にはなる。


 蓮は隅の席に座り、ホットコーヒーを注文した。


 清司は当然のように向かいの空席へ腰を下ろした。片手で頬杖をつき、その場所は最初から自分のために空けられていたのだと言わんばかりの態度だった。番組カメラマンは機材を少し下げたが、完全には止めなかった。レンズはまだ蓮に向いていて、あとで自然なカットを差し込むつもりなのだろう。


 コーヒーが運ばれてきたとき、店の外から押し殺したような悲鳴が聞こえた。


「あの人、何してるの?」


「……怖い。早く行こう」


 最初に異変に気づいたのは、窓際の女子高生たちだった。声は大きくなかったが、明らかな恐怖が混じっていたため、近くの客にも聞こえた。


 蓮は彼女たちの視線を追った。


 カフェの外、テラス席の椅子に、いつの間にか一人の老人が座っていた。


 老人は、元の色もわからないほど汚れた古い上着を着ていた。袖口は擦り切れ、裾には灰がついている。ズボンの裾は靴の上にだらしなくたまり、乱れた髪は額に貼りついていた。彼はうつむいたまま、前の客が残したケーキの欠片を一口ずつかじっている。


 最初、蓮はあまり気にしなかった。


 東京のような大都市には、華やかな商業区の裏側に、忘れられた人たちがいる。コンビニの外、駅の片隅、公園のベンチ。そういう場所で、ときどき見かける人たちだ。彼らと、明るいショーウィンドウ、清潔なガラス扉、きれいに着飾った若者たちの間には、見えない壁がある。


 蓮は助けたくないわけではなかった。


 ただ、今は番組収録中で、カメラも回っている。店内にはほかの客もいる。軽率に近づけば、助けるどころか相手をさらにさらし者にしてしまうかもしれなかった。


 だが、すぐに様子がおかしくなった。


 老人はケーキの欠片を食べ終えても、その場を離れなかった。


 彼はゆっくりとテーブルの上のガラスコップを取り、目の前に掲げて長いあいだ見つめた。


 それは、人がコップを見る目ではなかった。


 まるで、長く飢えた者が、ようやく皿に載せられた肉を見るような目だった。


 蓮はコーヒーカップを持つ手を少し止めた。


 次の瞬間、老人は口を開け、ガラスコップに噛みついた。


 がり、と。


 ガラスが砕ける音が、店の扉越しにもはっきり聞こえた。


 窓際の女子高生が悲鳴を上げ、すぐに口を押さえた。


 老人の口元はガラスで裂け、血が唇から流れた。だが彼は痛みを感じていないように、割れたガラス片をなおも口へ運ぶ。歯がガラスを噛み砕く音が断続的に聞こえ、背筋が冷えた。


 立ち上がって出口のほうへ下がる客もいれば、スマホを取り出して撮影する者もいた。


 店員は青ざめ、外へ出て止めるべきか迷っている。


 番組カメラマンは、ほとんど職業本能でカメラを持ち上げた。レンズは窓の外の老人へ向き、少しずつズームしていく。


 蓮はその動作を見て、眉をひそめた。


 清司は目を閉じていたが、ガラスを噛み砕く音を聞いて、ようやく薄く目を開けた。


 一瞥。


 ただそれだけだった。


 彼はすぐにまた目を閉じた。窓の外で口から血を流している人間など、自分には関係ないとでも言うように。


 老人はガラスコップを半分ほど食べたあと、今度はケーキ皿に手を伸ばした。


 店員がようやくドアを開けて外に出た。


「お客様、やめてください。危ないです」


 老人は反応しない。


 店員が皿を取ろうと手を伸ばした瞬間、老人がゆっくり顔を上げた。


 濁った空虚な目だった。けれど、その奥には強烈な飢餓だけがあった。店員は怯えて一歩下がり、手を宙に浮かせたまま固まった。


 周囲にはどんどん人が集まってきた。


 これは番組側が用意した突発企画なのではないか、と考え始める人もいた。カメラは店内にあり、蓮も近くに座っている。若者たちはあまり近づけないまま、それでも野次馬根性を捨てられず、いわゆる「展開」を待っている。


 蓮の胸の中で、不快感が膨らんでいった。


 立ち上がろうとしたそのとき、老人がぴたりと動きを止めた。


 血と屑まみれの顔が、ゆっくりとカフェの中を向く。視線はガラスを突き抜け、まっすぐ蓮に落ちた。


 次の瞬間、老人はドアを開け、蓮のもとへ一直線に歩いてきた。


 歩みは速かった。


 さっきまで弱りきっていた老人とは思えないほどに。


 店内の客が反射的に道を空ける。


 老人は蓮の前まで来ると、膝を折り、床に重く跪いた。


「……助けて」


 口を開いた途端、血が口からあふれた。


 真っ赤な血が、カフェのきれいな木の床に落ち、じわりと広がる。


 店内が静まり返った。


 同行カメラだけが老人に向いている。機械のわずかな作動音すら、耳障りに感じるほどだった。


 蓮は目の前で跪く老人を見た。


 正直、巻き込まれたくはなかった。


 この映像が撮られたら、編集次第でどんな話題にもされる。善良だと言われるかもしれない。番組の仕込みだと叩かれるかもしれない。老人を娯楽の素材にしたと批判されるかもしれない。


 だが、老人は今、蓮の目の前にいる。


 口から血を流している。


「おじいさん」


 蓮は声を低くし、できるだけ落ち着いた口調にした。


「まず、立ってください」


 老人は激しく首を振った。


「いや、いやだ……」


 彼は蓮のズボンの裾をつかんだ。灰と血で汚れた指が生地に食い込む。


「助けてくれ……死にたくない。死にたくないんだ……」


 言い終わらないうちに、老人は腹を抱えて、裂けるような悲鳴を上げた。


 その声はあまりに本物だった。


 ここまで来ても番組の演出だと思っていた人々ですら、反射的に一歩下がった。


 それでも野次馬は散らなかった。


 カメラがあり、蓮がいて、老人が跪いて助けを求めている。彼らの頭の中で最初に浮かぶのは、やはり番組の特殊ミッションなのだろう。若者たちの何人かは、小声で「芸能人の対応力を見る企画じゃない?」と囁いている。


 番組ディレクターは、すぐには収録を止めなかった。


 これは番組側が仕込んだものではない。


 だが、カメラに映る画はあまりにも強烈だった。


 蓮は彼を見た。


 ディレクターは動かず、ただカメラを肩にしっかり構え直した。


 その瞬間、蓮は理解した。


 誰も動かない。


 少なくとも、本当に場が制御不能になるまでは、彼らは見続けるつもりだ。


 蓮は視線を戻した。


「どうすれば助けられますか?」


 老人はゆっくり顔を上げた。


 目の中の黒い濁りが、少しずつ薄れていく。だが、それは正気に戻っているのではない。むしろ、身体の奥からもっと恐ろしいものが浮かび上がってくるようだった。


 ぼろぼろの服の裾が、風もないのに揺れる。


 口元と胸元には血がつき、歯の隙間には細かなガラス片が挟まっていた。柔らかな店内照明の下で、その痩せた顔は妖じみた歪みを帯びて見えた。


「……いい匂いだ」


 老人は蓮を見つめた。


「おまえを食わせろ」


 そう言った瞬間、老人は蓮に飛びかかった。


 動きは老人のものではなかった。


 蓮の反応は早かったが、それでも腕をつかまれた。枯れ枝のような指は鉄の爪のように皮膚へ食い込み、指骨が筋肉を圧迫する痛みが走る。


 周囲から悲鳴が上がる。


 それでも興奮したようにスマホを掲げる者もいた。まるで最も重要な場面に立ち会っているかのように。


 老人は蓮の腕に顔を近づけ、口を開けた。


 だが、噛みつく直前で動きが止まった。


 蓮の身体に何か、老人を恐れさせるものがあるのか。あるいは、本能的に食べられない何かを感じたのか。


 老人は蓮を突き放すように離し、隣でまだデザートを持っていた女の子へ向かった。


 その子はただの見物人だった。食べかけのケーキを手にしたまま、呆然とカメラを見ている。自分が番組の演出に巻き込まれたのかどうかを確認しているようだった。


 老人は彼女の手からケーキを奪い、皿ごと噛み砕いた。


 陶器の破片が、口の中で不快な音を立てる。


 女の子の顔が一気に白くなった。


 それは道具ではなかった。


 本物の皿だった。


「や、やめて……」


 女の子はようやく声を絞り出し、後ろへ下がろうとした。


 老人の白く濁った眼球が、彼女へ向く。


「あいつは食えない」


 老人は口を裂くように笑った。血と陶片が唇から落ちる。


「なら、おまえを食う。腹が減った……腹が減ったんだ……」


 彼は女の子へ飛びかかった。


 蓮はテーブルの上のコーヒーカップをつかみ、老人の口元を強く押し止めた。


 陶器のカップが鈍い音を立てる。


 蓮の腕は衝撃で痺れ、カップの中のコーヒーが袖口にこぼれた。温かさはすぐにべたつく不快感へ変わった。


 蓮は清司を見た。


 清司は相変わらず怠そうにそこへ座っていた。表情には何の揺れもない。


 まるで、蓮が自分でどうするか決めるのを待っているようだった。


 蓮は歯を食いしばった。


 仕方ない。


 まずは人を助ける。


 蓮は女の子の前に立ち、老人の二撃目を受け止めた。


 さっきよりも重い。


 蓮はよろけ、背中をテーブルの縁にぶつけた。コーヒーカップは手から飛び、床で砕ける。指先から肘まで痺れ、拳を握るのも難しかった。


 女の子はようやく周囲の人に引っ張られ、後ろへ下がった。


 老人は止まらない。


 血の匂いを嗅ぎつけた獣のように喉の奥で低く笑い、奇妙な角度で再び飛びかかってくる。蓮は老人の片手が顔の横へ向かうのを見て、避けようとした。だが次の瞬間、それがフェイントだと気づく。


 本当に狙っているのは、腹部に伸びてくるもう一方の手だった。


「ふん」


 清司がようやく口を開いた。


「俺の契約者に、俺の前で手を出す気か?」


 彼の瞳に金色の光が一瞬走った。


 老人は火に触れたように飛び退いた。


 普通の人間には金の光は見えない。ただ、老人が蓮に触れる直前、何か見えない力に突き飛ばされて床に倒れたように見えただけだった。


 店内は完全に混乱した。


 女の子は人混みの後ろで震えながら口を押さえている。ここまで来れば、いくら鈍い人間でも、これは番組の演出ではないとわかったはずだ。だが普通の人間には、老人の身体に起きている妖化の痕跡は見えない。彼らの目には、ただ狂った老人が通行人を襲っているようにしか映らない。


 老人は倒れたあと、すぐに這い起きた。


 動きはますます人間離れしていく。四肢を地につけ、背骨を弓なりにし、首を横へ傾ける。まるで身体の内側から何かに操られているようだった。


 同行カメラマンが特写を撮ろうと、無意識に一歩前へ出た。


 老人が突然、彼へ向いた。


 カメラのレンズいっぱいに、血まみれの顔が迫る。


 カメラマンは怯えて足を滑らせ、転びそうになった。蓮がすぐに腕を伸ばして支えたため、人も機材も床に叩きつけられずに済んだ。


「これは……いったい何なんだ?」


 蓮は老人の眉間を見た。


 そこに黒い気が渦巻いていた。


 黒気は炎のように眉間に張りつき、老人の皮膚を歪ませている。それは単なる憑依ではない。何かが老人の本来の意識を飲み込み、食べ続ける欲だけを残したように見えた。


 清司が立ち上がる。


「餓鬼憑きだ」


 蓮は彼を見る。


「餓鬼?」


「かつて、こいつ自身が呼び寄せた守護妖だ」


 清司の声は、冷淡すぎるほど平静だった。


「主人がそいつを使って悪事を重ねた。長い年月のうちに善が消え、悪だけが残った。今では逆に主人を喰い、他人の霊と肉を食って命をつないでいる」


 蓮は背筋が冷えた。


 清司が人ではないことも、この世界に隠り世やあやかしが存在することも、すでに知っている。それでも、人間がそういうものに侵食されていく瞬間を目にするたび、慣れることなどできなかった。


 清司は袖から小さな漆黒の瓶を取り出した。


 瓶口が開くと、薄い名簿が空中に浮かび上がった。


 紙面はひとりでにめくれ、名前が次々と流れていく。墨のように濃い名もあれば、消えかけのように薄い名もある。やがて、猩紅色の名前が中央で止まった。


 その名前の上に、朱い罰印がゆっくり落ちる。


 老人の身体が硬直した。


 次の瞬間、糸が切れたようにその場へ倒れた。


 胸元から、真っ黒な毛並みの鼠が飛び出した。床に落ちるなり人混みへ逃げ込もうとする。


 名簿から金色の縄が飛び出し、黒鼠を一瞬で縛った。


 鼠は甲高い声を上げ、身体を狂ったようにくねらせる。だが金の縄はますます強く締まり、次の瞬間、黒煙となって空気に溶けた。


 清司は瓶をしまった。


 顔には、またあの怠そうでうんざりした表情が戻っている。


 まるで、今動いたのは自分ではないと言いたげだった。


 周囲の人々はようやく我に返った。


 店員が慌てて老人の様子を見に行く。誰かが一一九番に通報し、今さらのようにスマホの録画を止める者もいた。救急隊がほどなく到着し、老人は担架で運ばれていった。見物人は、もう続きがないとわかると、少しずつ散っていった。


 蓮はこれ以上店に残りたくなかった。


 店員には、自分も巻き込まれただけだと簡単に説明し、同行ディレクターを連れて外へ出た。ディレクターはまださっきの恐怖から抜け出せていなかったが、それでもカメラだけは手放していない。


 カフェで時間を取られすぎたせいで、その後のNPC課題はまったく進められなかった。


 最終結果は当然、主演チームの勝利だった。


 収録後、蓮は休憩室へ戻り、ソファに深く沈み込んだ。


 彼がここまで露骨に疲れを見せることは珍しい。


 清司と出会った最初の日から、蓮の世界は誰かに裂かれたようだった。血契、狐印、夜魅、餓鬼憑き。ひとつずつ裂け目から這い出してきて、彼が掌握できていたはずの生活をぐちゃぐちゃにしていく。


 実際に経験していなければ、自分の知る現実の裏にこんな暗い層が隠れているなど、絶対に信じなかっただろう。


 蓮は清司を見た。


 清司は窓辺に立っていた。午後の光がその横顔を鋭く切り取り、あの顔は人間離れするほど美しく、そして冷たかった。


「おまえたちは、いったい何なんだ?」


 清司はすぐには答えなかった。


 少しして、淡々と口を開く。


「あやかし」


 彼は蓮を見る。


「あるいは、霊と呼んでもいい」


「霊?」


 蓮はさらに聞こうとした。


 だが清司はすでに説明する気をなくしていた。


「おまえが知る必要のないことだ」


 その声は冷たくなった。


「おまえの役目は、人を探すことだけだ」


 蓮はもう追及しなかった。


 清司がこれ以上話さないことはわかっていた。


 それから数日、撮影は意外なほど順調に進んだ。


 朝比奈旭はもう蓮をわざと困らせることもなかった。現場の空気は以前より軽くなり、水野悠介も明らかに安心していた。『雲中縁』の後半宣伝も加速し、宣伝チームはスチル、メイキング、現場写真を次々に公開した。蓮が人を助けたこと、落水シーン、バラエティのカフェ事件は、短い動画に切り抜かれ、Xや動画サイトで繰り返し拡散された。


 番組が放送された夜、蓮はいくつものトレンドに入った。


「佐伯蓮、女子学生を救う」


「カフェで老人が異常行動」


「佐伯蓮のバラエティ対応力」


 さらに、彼がカップルを祝福した場面を切り抜き、「優しすぎる」と題した動画も拡散された。


 もちろん、悪い声もあった。


 番組側の台本に決まっていると言う者。蓮が売れるために、ホームレスの老人まで利用したと嘲る者。匿名掲示板では、なぜ彼がいる場所ではいつも事故が起きるのか、という話題まで出ていた。


 蓮はその声を気にしなかった。


 彼が欲しいのは、もともと露出だった。


 話題性が高ければ高いほど、蓮の写真や映像を見る人が増える。清司が探している相手が、彼のそばに立つ影を見る可能性も高くなる。


 やがて、『雲中縁』の撮影は終わりに近づいた。


 水野悠介は打ち上げを手配し、主要キャストは必ず参加するようにと念を押した。蓮は断りたかったが、水野は、今回はただの劇組の集まりではなく、制作側、配信側、そして業界の先輩も何人か来ると言った。


 断りきれず、蓮は出席することにした。


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