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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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8/16

奪われた役

「蓮さんが、僕の本を読んでくれていたんですか」


 森崎悠真の声が一気に明るくなった。


「本当に、すごく嬉しいです」


 自分が憧れている相手も自分の作品を好きでいてくれるなど、思ってもみなかったようだった。


 森崎は幼い頃から、部屋にこもって文章を書くのが好きだった。親戚や友人は彼を変わり者だと言い、同級生は陰気だと言った。そのうち彼は外の世界から自分を切り離し、本と物語だけで生きるようになった。


 ある日、テレビで佐伯蓮のインタビューを見るまでは。


 その頃の蓮はまだ若く、番組でも多くを語るタイプではなかった。司会者が「誰にも自分のやりたいことを理解されなかったら、どうしますか」と尋ねた。


 蓮は少し黙り、ただ一言だけ答えた。


「理解されなくてもいい。歩き続ければ、結果が代わりに語ってくれる」


 森崎はその言葉を何年も覚えていた。


 それから彼は、さらに真剣に書き、投稿し、直し、また投稿した。最初の一冊が出版されてから、彼を笑っていた声は少しずつ減っていった。


「君の文章はいい」


 蓮は言った。


 電話の向こうが二秒ほど静まり、すぐに森崎の抑えきれない笑い声が聞こえた。


「蓮さんに褒められた」


 彼はすぐに用件を思い出したようだった。


「そうだ。この前は途中で帰ってしまってすみません。編集さんに締め切りを急かされていて。本当に失礼しました」


「気にしていない」


「今回は半月分、原稿を貯めました」


 森崎の声が慎重になる。


「いつ空いていますか。食事をご馳走して、きちんとお詫びしたいんです」


 蓮は少し黙った。


「いいよ」


 電話の向こうが、ふいに無音になった。


「本当ですか。じゃあ、今夜でも大丈夫ですか」


「今夜にしよう」


 明日、新作ドラマがクランクインする。


 蓮は、少し肩の力を抜いてもいいと思った。追い込みすぎれば、かえって調子を崩す。何より、その役については十分に準備していた。


 清司は窓台に座り、蓮が着替えるのを見ていた。


「前回、あの子はお前に手を出しかけた。それでも会うのか」


 蓮は上着のボタンを留め、返事をしなかった。


 ここ数日、清司は神出鬼没で、部屋のどこにでも突然現れた。最初こそ慣れなかった蓮も、今では空気のように扱えるようになっている。


 清司は反応がないのを見て、軽く舌打ちした。


「まあ、この顔なら仕方ない。あの子が執着するのもわかる」


 蓮は帽子を手に取った。


「暇なのか」


 清司は眉を上げた。


 蓮はそれ以上言わず、簡単には気づかれない格好を確認してから、家を出た。


 妙な噂を避けるため、森崎が迎えに来るという提案は断り、自分でタクシーに乗って待ち合わせ場所へ向かった。降りて初めて、森崎が選んだのが渋谷のミュージックダイニングだと知った。


 店内に完全な個室はなく、竹藤と木格子で仕切られた半個室があるだけだった。扉を開けると、小さなステージが見える。歌手がギターを抱え、少し古い時代の匂いがする歌を歌っていた。


 森崎は入口で待っていたが、蓮よりも慌てているように見えた。


「ここ、こんなお店だったんですね……」


 中を見てから、蓮へ視線を戻す。


「蓮さん、別の店にしますか。編集さんが、音楽を聴きながら二人で食事するのにいいって言っていたんです。こんなに賑やかだとは思わなくて」


「大丈夫」


 蓮は店内の人混みを見た。


「賑やかなほうがいい」


 こういう場所に慣れているわけではない。


 ただ、人が多いのは都合がよかった。もしかしたら、清司の探している相手がここにいるかもしれない。


 二人は比較的静かな角の席に座った。


 この店は音楽だけで客を集めているわけではなく、名物料理も評判だった。若い客が集まって食事することも多い。森崎の編集者は、彼が誰かを誘って出かけると聞き、この家にこもりがちな若い作家がついに変わったのだと誤解して、ここを勧めたのだろう。


 清司はソファの端にしゃがみ、白狐のように冷ややかに眺めていた。


 蓮はそちらを見る。


 清司は首を振った。


 いない。


 蓮は視線を戻した。


 やはり、芝居の仕事を増やす必要がある。人前に出る機会が増えれば増えるほど、清司の探す相手が蓮を見る可能性も高くなる。


「蓮さん、この角煮、本当においしいです」


 森崎は真剣に食べていて、目まで輝いていた。


 向かいで何のためらいもなく食事を楽しむ若い作家を見て、蓮の胸にまた少しだけ羨ましさが生まれた。


 自分はもうずいぶん長いこと、こんなふうに気を抜いて食べていない気がする。


 スマートフォンの画面が突然明るくなった。


 伊織からのメッセージだった。


「蓮さん、あの男三番手、キャスト変更です……」


 蓮の指が画面の上で止まった。


 水野悠介は長年の友人だ。理由もなく、彼を降ろすはずがない。数日前に会ったときも、しっかり準備しておけと言っていた。


 続いて、水野からもメッセージが届いた。


「蓮、今話せるか。少し会って話したい」


 蓮は一文字だけ返した。


「はい」


 森崎が顔を上げた。


「蓮さん、もう食べないんですか」


 蓮は立ち上がった。


「すまない。急用ができた。次は俺が埋め合わせをする」


 森崎は追及せず、引き止めもしなかった。


 ただ静かに席へ戻り、蓮が出ていくのを見送った。


 水野に会いに向かう途中で、蓮はだいたいの事情を察していた。


 ただ、彼らがそこまでやるとは思っていなかった。


 水野は、とある会員制ラウンジで会うよう指定した。


 蓮が到着すると、水野はすでに一階の休憩スペースで待っていた。普段は監督らしい緩さを少し漂わせている人なのに、このときは顔色が悪かった。


「蓮、すまない」


 最初の一言が謝罪だった。


 蓮は座った。


 水野はテーブルを見下ろした。


「制作委員会のほうで、急にキャストを替えたいと言い出した」


 事情は複雑ではなかった。


 スポンサーが神谷優を組に入れたがっている。新しい役を足すだけなら、水野にも調整の余地はあった。だが相手は、よりによって蓮の男三番手を欲しがった。


 さらに悪いことに、蓮と交代させるだけでなく、蓮を完全に降板させることまで求めていた。


 理由はもっともらしかった。


 怪我が治ったばかりで、世論のリスクが不安定だ。クランクイン後に状態が悪化すれば、撮影全体に影響が出る。


 水野は何度も、蓮の顔は回復しており、演技に問題はないと主張した。だが相手の返事は一つだけだった。


 佐伯蓮を使うなら、出資を引き上げる。


 水野は新進監督にすぎない。


 賞を取っていても、制作委員会とスポンサーの前で、企画の生死を本当に決める権限はなかった。このドラマには準備段階から多くの労力が注がれ、何十人ものスタッフが始動を待っている。出資引き上げの責任を、彼一人で背負うことはできない。


「どうにもならなかった」


 水野の声は低かった。


「本当にすまない」


 蓮は静かに最後まで聞いた。


「大丈夫です。わかっています」


 芸能界は、もともとそういう場所だ。


 監督には監督のこだわりがある。だが企画が動くかどうかは、資金、配信先、制作委員会によって決まることが多い。水野が蓮を守りたくなかったわけではない。ただ、守れなかっただけだ。


「それでも、ありがとうございます」


 水野の表情はいっそう苦くなった。


 蓮に数言でも責められたほうが、まだ楽だった。こんなに静かに受け止められるほうがつらい。


「彼らはまだ上にいる。俺は戻らなきゃならない」


 そう言って、水野は立ち上がった。


 蓮は一人でソファに座った。


 ラウンジ一階の灯りは柔らかく、周囲には人が行き交っている。それでも誰も蓮に気づかなかった。彼は頭を下げ、台本の角をゆっくり指で押さえたまま、長いあいだ動かなかった。


「どうして諦める」


 清司の声が、ふいに響いた。


 蓮は顔を上げなかった。


 自分の目に滲むものを、清司に見られたくなかった。


「役など」


 清司は蓮の前に立ち、軽い口調で言った。


「奪い返せばいいだろう」


 蓮は勢いよく顔を上げた。


「何をするつもりだ」


 清司は答えなかった。


 その姿は、もうその場から消えていた。

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