奪われた役
「蓮さんが、僕の本を読んでくれていたんですか」
森崎悠真の声が一気に明るくなった。
「本当に、すごく嬉しいです」
自分が憧れている相手も自分の作品を好きでいてくれるなど、思ってもみなかったようだった。
森崎は幼い頃から、部屋にこもって文章を書くのが好きだった。親戚や友人は彼を変わり者だと言い、同級生は陰気だと言った。そのうち彼は外の世界から自分を切り離し、本と物語だけで生きるようになった。
ある日、テレビで佐伯蓮のインタビューを見るまでは。
その頃の蓮はまだ若く、番組でも多くを語るタイプではなかった。司会者が「誰にも自分のやりたいことを理解されなかったら、どうしますか」と尋ねた。
蓮は少し黙り、ただ一言だけ答えた。
「理解されなくてもいい。歩き続ければ、結果が代わりに語ってくれる」
森崎はその言葉を何年も覚えていた。
それから彼は、さらに真剣に書き、投稿し、直し、また投稿した。最初の一冊が出版されてから、彼を笑っていた声は少しずつ減っていった。
「君の文章はいい」
蓮は言った。
電話の向こうが二秒ほど静まり、すぐに森崎の抑えきれない笑い声が聞こえた。
「蓮さんに褒められた」
彼はすぐに用件を思い出したようだった。
「そうだ。この前は途中で帰ってしまってすみません。編集さんに締め切りを急かされていて。本当に失礼しました」
「気にしていない」
「今回は半月分、原稿を貯めました」
森崎の声が慎重になる。
「いつ空いていますか。食事をご馳走して、きちんとお詫びしたいんです」
蓮は少し黙った。
「いいよ」
電話の向こうが、ふいに無音になった。
「本当ですか。じゃあ、今夜でも大丈夫ですか」
「今夜にしよう」
明日、新作ドラマがクランクインする。
蓮は、少し肩の力を抜いてもいいと思った。追い込みすぎれば、かえって調子を崩す。何より、その役については十分に準備していた。
清司は窓台に座り、蓮が着替えるのを見ていた。
「前回、あの子はお前に手を出しかけた。それでも会うのか」
蓮は上着のボタンを留め、返事をしなかった。
ここ数日、清司は神出鬼没で、部屋のどこにでも突然現れた。最初こそ慣れなかった蓮も、今では空気のように扱えるようになっている。
清司は反応がないのを見て、軽く舌打ちした。
「まあ、この顔なら仕方ない。あの子が執着するのもわかる」
蓮は帽子を手に取った。
「暇なのか」
清司は眉を上げた。
蓮はそれ以上言わず、簡単には気づかれない格好を確認してから、家を出た。
妙な噂を避けるため、森崎が迎えに来るという提案は断り、自分でタクシーに乗って待ち合わせ場所へ向かった。降りて初めて、森崎が選んだのが渋谷のミュージックダイニングだと知った。
店内に完全な個室はなく、竹藤と木格子で仕切られた半個室があるだけだった。扉を開けると、小さなステージが見える。歌手がギターを抱え、少し古い時代の匂いがする歌を歌っていた。
森崎は入口で待っていたが、蓮よりも慌てているように見えた。
「ここ、こんなお店だったんですね……」
中を見てから、蓮へ視線を戻す。
「蓮さん、別の店にしますか。編集さんが、音楽を聴きながら二人で食事するのにいいって言っていたんです。こんなに賑やかだとは思わなくて」
「大丈夫」
蓮は店内の人混みを見た。
「賑やかなほうがいい」
こういう場所に慣れているわけではない。
ただ、人が多いのは都合がよかった。もしかしたら、清司の探している相手がここにいるかもしれない。
二人は比較的静かな角の席に座った。
この店は音楽だけで客を集めているわけではなく、名物料理も評判だった。若い客が集まって食事することも多い。森崎の編集者は、彼が誰かを誘って出かけると聞き、この家にこもりがちな若い作家がついに変わったのだと誤解して、ここを勧めたのだろう。
清司はソファの端にしゃがみ、白狐のように冷ややかに眺めていた。
蓮はそちらを見る。
清司は首を振った。
いない。
蓮は視線を戻した。
やはり、芝居の仕事を増やす必要がある。人前に出る機会が増えれば増えるほど、清司の探す相手が蓮を見る可能性も高くなる。
「蓮さん、この角煮、本当においしいです」
森崎は真剣に食べていて、目まで輝いていた。
向かいで何のためらいもなく食事を楽しむ若い作家を見て、蓮の胸にまた少しだけ羨ましさが生まれた。
自分はもうずいぶん長いこと、こんなふうに気を抜いて食べていない気がする。
スマートフォンの画面が突然明るくなった。
伊織からのメッセージだった。
「蓮さん、あの男三番手、キャスト変更です……」
蓮の指が画面の上で止まった。
水野悠介は長年の友人だ。理由もなく、彼を降ろすはずがない。数日前に会ったときも、しっかり準備しておけと言っていた。
続いて、水野からもメッセージが届いた。
「蓮、今話せるか。少し会って話したい」
蓮は一文字だけ返した。
「はい」
森崎が顔を上げた。
「蓮さん、もう食べないんですか」
蓮は立ち上がった。
「すまない。急用ができた。次は俺が埋め合わせをする」
森崎は追及せず、引き止めもしなかった。
ただ静かに席へ戻り、蓮が出ていくのを見送った。
水野に会いに向かう途中で、蓮はだいたいの事情を察していた。
ただ、彼らがそこまでやるとは思っていなかった。
水野は、とある会員制ラウンジで会うよう指定した。
蓮が到着すると、水野はすでに一階の休憩スペースで待っていた。普段は監督らしい緩さを少し漂わせている人なのに、このときは顔色が悪かった。
「蓮、すまない」
最初の一言が謝罪だった。
蓮は座った。
水野はテーブルを見下ろした。
「制作委員会のほうで、急にキャストを替えたいと言い出した」
事情は複雑ではなかった。
スポンサーが神谷優を組に入れたがっている。新しい役を足すだけなら、水野にも調整の余地はあった。だが相手は、よりによって蓮の男三番手を欲しがった。
さらに悪いことに、蓮と交代させるだけでなく、蓮を完全に降板させることまで求めていた。
理由はもっともらしかった。
怪我が治ったばかりで、世論のリスクが不安定だ。クランクイン後に状態が悪化すれば、撮影全体に影響が出る。
水野は何度も、蓮の顔は回復しており、演技に問題はないと主張した。だが相手の返事は一つだけだった。
佐伯蓮を使うなら、出資を引き上げる。
水野は新進監督にすぎない。
賞を取っていても、制作委員会とスポンサーの前で、企画の生死を本当に決める権限はなかった。このドラマには準備段階から多くの労力が注がれ、何十人ものスタッフが始動を待っている。出資引き上げの責任を、彼一人で背負うことはできない。
「どうにもならなかった」
水野の声は低かった。
「本当にすまない」
蓮は静かに最後まで聞いた。
「大丈夫です。わかっています」
芸能界は、もともとそういう場所だ。
監督には監督のこだわりがある。だが企画が動くかどうかは、資金、配信先、制作委員会によって決まることが多い。水野が蓮を守りたくなかったわけではない。ただ、守れなかっただけだ。
「それでも、ありがとうございます」
水野の表情はいっそう苦くなった。
蓮に数言でも責められたほうが、まだ楽だった。こんなに静かに受け止められるほうがつらい。
「彼らはまだ上にいる。俺は戻らなきゃならない」
そう言って、水野は立ち上がった。
蓮は一人でソファに座った。
ラウンジ一階の灯りは柔らかく、周囲には人が行き交っている。それでも誰も蓮に気づかなかった。彼は頭を下げ、台本の角をゆっくり指で押さえたまま、長いあいだ動かなかった。
「どうして諦める」
清司の声が、ふいに響いた。
蓮は顔を上げなかった。
自分の目に滲むものを、清司に見られたくなかった。
「役など」
清司は蓮の前に立ち、軽い口調で言った。
「奪い返せばいいだろう」
蓮は勢いよく顔を上げた。
「何をするつもりだ」
清司は答えなかった。
その姿は、もうその場から消えていた。




