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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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7/16

君を飼いたい夜

 蓮は、森崎悠真が自分のファンだとは思っていなかった。


 反射的に清司を見る。


 清司は何も言わず、人混みの端に立って周囲を見続けていた。その姿はぼんやりしているようにも、どんなわずかな気配も逃すまいとしているようにも見えた。


 森崎は清司の存在にまったく気づいていない。


「最初の作品から、ずっと好きでした」


 彼の話す速度は速かった。途中で自分が焦りすぎていることに気づいたのか、必死にゆっくりにしようとする。


「その後、出演作が少なくなって、役も小さくなっていったけど、それでもずっと好きです。あなたの出ているシーンは、全部見ています」


 あまりにまっすぐな好意に、蓮は一瞬どう返せばいいのかわからなかった。


「ありがとう」


 彼は時間を見た。


「もう遅い。俺はそろそろ帰る」


 今日はかなり長く外にいた。清司の反応を見る限り、今回も収穫はなさそうだ。蓮は早く帰って、明日読む台本をもう一度確認したかった。


 森崎は半歩近づいた。


「……蓮さん」


 呼び方が口から出た瞬間、森崎自身も少し戸惑ったようだった。失礼ではないかと怯えながら、それでも戻したくないという顔をしている。


「一緒に夕食を食べてもらえませんか」


 その目は明るすぎた。期待でいっぱいで、同時に断られることを恐れている。


 蓮はしばらく黙った。


「いいよ」


 森崎が連れていったのは、高級フレンチのレストランだった。


 人に気づかれないよう、彼は目立たない席を予約していた。座ってからの森崎は、むしろ蓮より緊張していて、指がメニューの端を何度も触れた。


「編集さんが、大切な人を食事に誘うならここがいいって。僕も、少し堅すぎるんじゃないかと思っていて」


 蓮はマスクを外した。


「蓮でいい」


 森崎の目が一気に輝いた。


「……じゃあ、蓮さんで」


 蓮は否定しなかった。


 森崎は許可を得たように、少しだけ肩の力を抜いた。自分の新刊のこと、サイン会で読者に聞かれた質問のこと、初めて蓮の芝居を見たときのことを話した。


 蓮は多くを聞き、あまり話さなかった。


 もともとそういう人間だった。


 料理が半ばまで進んだ頃、清司がふいに顔を上げた。


 蓮がその視線に気づき、口を開く前に、清司はその場から消えた。


 個室には蓮と森崎だけが残った。


 最初は、すべて普通だった。


 森崎は蓮の体調を尋ね、また芝居をするのかと聞き、自分の本のどれを読んだのかと聞いた。蓮は短く答えた。ところが、ある瞬間、森崎はナイフとフォークを置いた。


「蓮さん」


 声が急に低くなる。


「僕が養います」


 蓮は聞き間違えたのかと思った。


「何を言っている」


 森崎の表情は、奇妙なほど穏やかだった。


「僕が、あなたを養います」


 まるで、ごく当たり前の相談をしているかのように言う。


「仕事も人脈もお金も、あなたが望むなら全部用意できます。事務所のつまらない仕事に振り回されなくていい。誰かに役を奪われる心配もしなくていい」


 蓮は眉を寄せた。


「森崎先生」


 森崎は立ち上がり、ゆっくり蓮へ近づいた。


「好きなんです、蓮さん」


 瞳の奥に、暗い膜のようなものがかかっている。


「どうしよう」


 蓮はようやく異常に気づき、立ち上がって出ようとした。


 森崎は一歩早く扉を塞いだ。


 普段は細く穏やかに見える青年の力が、今は異様に強かった。彼は蓮の手首を掴み、扉際へ押しつける。白い顔が少しずつ近づき、吐息には本人のものではない冷たい気配が混じっていた。


「あなたの欲しいものは、全部あげられます」


 声が近すぎて不快だった。


「あなたは、僕のそばにいてくれればいい」


 蓮は力を込めて振りほどこうとしたが、外れなかった。


 膝で相手を押しのけようとした、その直前、森崎が突然悲鳴を上げた。


「うっ」


 蓮を掴んでいた手が離れた。


 蓮は床へ滑り落ち、荒く息をした。


 清司が森崎の背後に立っていた。表情は凍るほど冷たい。


「私が少し離れただけで、もうこれか」


 彼は蓮を見下ろした。


「本当に脆いな」


 蓮は彼を睨んだ。


 清司は手を上げ、森崎の眉間に指先を当てた。


 黒い霧が一筋、無理やり引き抜かれる。空中でしばらくもがいたあと、すぐに散った。


 森崎は悪夢から目を覚ましたように、目の前の状況を茫然と見た。


「蓮さん、どうしたんですか」


 近づこうとした彼を、蓮は反射的に避けた。


 森崎の顔から血の気が一気に引く。自分が何をしたのかわからないのに、何か取り返しのつかないことをしてしまった子どものように、その場で立ち尽くした。


 清司が鼻で笑った。


「夜魅に憑かれていた」


 蓮はテーブルの縁につかまり、立ち上がった。


「夜魅?」


「人の欲に寄生する小妖だ」


 清司は森崎を一瞥した。


「書店は人が多かった。あれは人混みに紛れ、この子の気が薄く、心も揺れていたのを見て取り憑いた」


 蓮は森崎を見た。


 森崎はまだその場に立ち、指先を震わせていた。演技にも、責任逃れにも見えない。本当に、たった今自分が何をしたのかわかっていないのだ。


 ほどなく、森崎のスマートフォンに編集者から電話が入った。


 向こうはかなり急いでいるらしく、森崎は数言聞いただけでさらに顔色を白くした。慌てて荷物をまとめたが、すぐには出ていかず、蓮の前に立って深く頭を下げた。


「すみませんでした」


 声は小さかった。


「さっき何が起きたのか、僕にはわかりません。もし不快な思いをさせたなら、必ず正式に謝罪します」


 蓮は何も言わなかった。


 森崎はおそるおそる顔を上げた。


「連絡先を教えてもらえませんか。次は、ちゃんとお詫びしたいんです」


 蓮は彼をしばらく見て、最終的に森崎のスマートフォンへ番号を入力した。


 森崎は画面を見つめ、唇にごく薄い笑みを浮かべた。その笑みはすぐに消え、顔を上げたときにはまた、静かで無害そうな若い作家に戻っていた。


「ありがとうございます、蓮さん。今日は失礼します」


 森崎が去ったあと、個室は静かになった。


 清司はその背中を見送り、冷めた目をしていた。


 彼は蓮に言わなかった。


 夜魅に憑かれた人間が口にするのは、たいてい何もないところから生まれた嘘ではない。


 普段は心の底に押し込め、実行できず、認めることもできない欲望だ。


 人間とは、面倒なものだ。


 蓮はテーブルに手をついて身体を支えた。


「さっき、どこへ行っていた」


 清司の目に深く沈んだ失望は、完全には蓮から隠れなかった。


 蓮は、彼がまた朔の気配を追ったのだろうとぼんやり察した。


 清司は冷たく蓮を見た。


「お前は人を探すだけでいい」


 声はいつものように冷えきっていた。


「それ以上を聞く資格はない」


 あと少しだった。


 この弱い人間を助けるために戻らなければ、彼はほとんどあの気配を捕まえられていた。


 清司は知らなかった。


 このレストランからほど近い高級ホテルの最上階で、早乙女律が宵宮朔の手首を掴んでいたことを。


「さっき、何を見ていた」


 朔は東京の夜景を見つめ、少し上の空だった。


「同族の気配がした気がする」


 低くつぶやく。


「でも、消えた」


 律の目が少しずつ沈んでいく。


「帰りたいのか」


 朔は我に返った。


「違う」


 律は答えなかった。ただ、朔をもう一度腕の中へ引き寄せた。その動きには少年のようなわがままと、失うことを恐れる強さがあった。


 朔はため息をつき、最後には手を上げて律の背を抱いた。


「お前を置いて行ったりしない」


 厚いカーテンが外の光を遮り、部屋の中のすべての音も閉じ込めた。


 蓮は家に戻っても、すぐには休まなかった。


 台本をもう一度開く。


 重要な箇所には何度も印がつけられ、紙の角は少し反っていた。蓮はこの作品に強く向き合っていた。清司のためだけではない。自分自身のためでもあった。


 それから半月ほど、彼はほとんど家にこもった。


 伊織が何度か来た以外、ほとんどの時間を台本の準備に使った。清司も意外なほど静かで、今すぐ外へ出て人を探せとは言わなかった。


 ある夜、スマートフォンが鳴った。


 蓮は着信表示を見て、電話に出た。


「もしもし」


 電話の向こうの声には、隠しきれない喜びがあった。


「蓮さんですか」


 蓮は誰かわかった。


「悠真か」


「あ、声を覚えていてくれたんですね。嬉しいです」


 蓮は椅子の背にもたれた。


 その無防備な喜びに、彼は一瞬だけ、ごく淡い羨ましさを覚えた。


「君の本も読んだことがある」


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