君を飼いたい夜
蓮は、森崎悠真が自分のファンだとは思っていなかった。
反射的に清司を見る。
清司は何も言わず、人混みの端に立って周囲を見続けていた。その姿はぼんやりしているようにも、どんなわずかな気配も逃すまいとしているようにも見えた。
森崎は清司の存在にまったく気づいていない。
「最初の作品から、ずっと好きでした」
彼の話す速度は速かった。途中で自分が焦りすぎていることに気づいたのか、必死にゆっくりにしようとする。
「その後、出演作が少なくなって、役も小さくなっていったけど、それでもずっと好きです。あなたの出ているシーンは、全部見ています」
あまりにまっすぐな好意に、蓮は一瞬どう返せばいいのかわからなかった。
「ありがとう」
彼は時間を見た。
「もう遅い。俺はそろそろ帰る」
今日はかなり長く外にいた。清司の反応を見る限り、今回も収穫はなさそうだ。蓮は早く帰って、明日読む台本をもう一度確認したかった。
森崎は半歩近づいた。
「……蓮さん」
呼び方が口から出た瞬間、森崎自身も少し戸惑ったようだった。失礼ではないかと怯えながら、それでも戻したくないという顔をしている。
「一緒に夕食を食べてもらえませんか」
その目は明るすぎた。期待でいっぱいで、同時に断られることを恐れている。
蓮はしばらく黙った。
「いいよ」
森崎が連れていったのは、高級フレンチのレストランだった。
人に気づかれないよう、彼は目立たない席を予約していた。座ってからの森崎は、むしろ蓮より緊張していて、指がメニューの端を何度も触れた。
「編集さんが、大切な人を食事に誘うならここがいいって。僕も、少し堅すぎるんじゃないかと思っていて」
蓮はマスクを外した。
「蓮でいい」
森崎の目が一気に輝いた。
「……じゃあ、蓮さんで」
蓮は否定しなかった。
森崎は許可を得たように、少しだけ肩の力を抜いた。自分の新刊のこと、サイン会で読者に聞かれた質問のこと、初めて蓮の芝居を見たときのことを話した。
蓮は多くを聞き、あまり話さなかった。
もともとそういう人間だった。
料理が半ばまで進んだ頃、清司がふいに顔を上げた。
蓮がその視線に気づき、口を開く前に、清司はその場から消えた。
個室には蓮と森崎だけが残った。
最初は、すべて普通だった。
森崎は蓮の体調を尋ね、また芝居をするのかと聞き、自分の本のどれを読んだのかと聞いた。蓮は短く答えた。ところが、ある瞬間、森崎はナイフとフォークを置いた。
「蓮さん」
声が急に低くなる。
「僕が養います」
蓮は聞き間違えたのかと思った。
「何を言っている」
森崎の表情は、奇妙なほど穏やかだった。
「僕が、あなたを養います」
まるで、ごく当たり前の相談をしているかのように言う。
「仕事も人脈もお金も、あなたが望むなら全部用意できます。事務所のつまらない仕事に振り回されなくていい。誰かに役を奪われる心配もしなくていい」
蓮は眉を寄せた。
「森崎先生」
森崎は立ち上がり、ゆっくり蓮へ近づいた。
「好きなんです、蓮さん」
瞳の奥に、暗い膜のようなものがかかっている。
「どうしよう」
蓮はようやく異常に気づき、立ち上がって出ようとした。
森崎は一歩早く扉を塞いだ。
普段は細く穏やかに見える青年の力が、今は異様に強かった。彼は蓮の手首を掴み、扉際へ押しつける。白い顔が少しずつ近づき、吐息には本人のものではない冷たい気配が混じっていた。
「あなたの欲しいものは、全部あげられます」
声が近すぎて不快だった。
「あなたは、僕のそばにいてくれればいい」
蓮は力を込めて振りほどこうとしたが、外れなかった。
膝で相手を押しのけようとした、その直前、森崎が突然悲鳴を上げた。
「うっ」
蓮を掴んでいた手が離れた。
蓮は床へ滑り落ち、荒く息をした。
清司が森崎の背後に立っていた。表情は凍るほど冷たい。
「私が少し離れただけで、もうこれか」
彼は蓮を見下ろした。
「本当に脆いな」
蓮は彼を睨んだ。
清司は手を上げ、森崎の眉間に指先を当てた。
黒い霧が一筋、無理やり引き抜かれる。空中でしばらくもがいたあと、すぐに散った。
森崎は悪夢から目を覚ましたように、目の前の状況を茫然と見た。
「蓮さん、どうしたんですか」
近づこうとした彼を、蓮は反射的に避けた。
森崎の顔から血の気が一気に引く。自分が何をしたのかわからないのに、何か取り返しのつかないことをしてしまった子どものように、その場で立ち尽くした。
清司が鼻で笑った。
「夜魅に憑かれていた」
蓮はテーブルの縁につかまり、立ち上がった。
「夜魅?」
「人の欲に寄生する小妖だ」
清司は森崎を一瞥した。
「書店は人が多かった。あれは人混みに紛れ、この子の気が薄く、心も揺れていたのを見て取り憑いた」
蓮は森崎を見た。
森崎はまだその場に立ち、指先を震わせていた。演技にも、責任逃れにも見えない。本当に、たった今自分が何をしたのかわかっていないのだ。
ほどなく、森崎のスマートフォンに編集者から電話が入った。
向こうはかなり急いでいるらしく、森崎は数言聞いただけでさらに顔色を白くした。慌てて荷物をまとめたが、すぐには出ていかず、蓮の前に立って深く頭を下げた。
「すみませんでした」
声は小さかった。
「さっき何が起きたのか、僕にはわかりません。もし不快な思いをさせたなら、必ず正式に謝罪します」
蓮は何も言わなかった。
森崎はおそるおそる顔を上げた。
「連絡先を教えてもらえませんか。次は、ちゃんとお詫びしたいんです」
蓮は彼をしばらく見て、最終的に森崎のスマートフォンへ番号を入力した。
森崎は画面を見つめ、唇にごく薄い笑みを浮かべた。その笑みはすぐに消え、顔を上げたときにはまた、静かで無害そうな若い作家に戻っていた。
「ありがとうございます、蓮さん。今日は失礼します」
森崎が去ったあと、個室は静かになった。
清司はその背中を見送り、冷めた目をしていた。
彼は蓮に言わなかった。
夜魅に憑かれた人間が口にするのは、たいてい何もないところから生まれた嘘ではない。
普段は心の底に押し込め、実行できず、認めることもできない欲望だ。
人間とは、面倒なものだ。
蓮はテーブルに手をついて身体を支えた。
「さっき、どこへ行っていた」
清司の目に深く沈んだ失望は、完全には蓮から隠れなかった。
蓮は、彼がまた朔の気配を追ったのだろうとぼんやり察した。
清司は冷たく蓮を見た。
「お前は人を探すだけでいい」
声はいつものように冷えきっていた。
「それ以上を聞く資格はない」
あと少しだった。
この弱い人間を助けるために戻らなければ、彼はほとんどあの気配を捕まえられていた。
清司は知らなかった。
このレストランからほど近い高級ホテルの最上階で、早乙女律が宵宮朔の手首を掴んでいたことを。
「さっき、何を見ていた」
朔は東京の夜景を見つめ、少し上の空だった。
「同族の気配がした気がする」
低くつぶやく。
「でも、消えた」
律の目が少しずつ沈んでいく。
「帰りたいのか」
朔は我に返った。
「違う」
律は答えなかった。ただ、朔をもう一度腕の中へ引き寄せた。その動きには少年のようなわがままと、失うことを恐れる強さがあった。
朔はため息をつき、最後には手を上げて律の背を抱いた。
「お前を置いて行ったりしない」
厚いカーテンが外の光を遮り、部屋の中のすべての音も閉じ込めた。
蓮は家に戻っても、すぐには休まなかった。
台本をもう一度開く。
重要な箇所には何度も印がつけられ、紙の角は少し反っていた。蓮はこの作品に強く向き合っていた。清司のためだけではない。自分自身のためでもあった。
それから半月ほど、彼はほとんど家にこもった。
伊織が何度か来た以外、ほとんどの時間を台本の準備に使った。清司も意外なほど静かで、今すぐ外へ出て人を探せとは言わなかった。
ある夜、スマートフォンが鳴った。
蓮は着信表示を見て、電話に出た。
「もしもし」
電話の向こうの声には、隠しきれない喜びがあった。
「蓮さんですか」
蓮は誰かわかった。
「悠真か」
「あ、声を覚えていてくれたんですね。嬉しいです」
蓮は椅子の背にもたれた。
その無防備な喜びに、彼は一瞬だけ、ごく淡い羨ましさを覚えた。
「君の本も読んだことがある」




