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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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サイン会の少年作家

 国立競技場を出ると、伊織はすでに外で長く待っていた。


 蓮が出てくるのを見ると、すぐに運転手へ合図を出し、車を路肩へ寄せさせて蓮を乗せた。数日前、蓮から顔の傷はもう治ったから脚本を探してくれと言われたとき、伊織は正直信じられなかった。


 医師はあのとき慎重な言い方をした。


 あれほどの傷なら、順調に回復しても時間がかかるはずだった。けれど今、蓮がマスクを外すと、その顔は何事もなかったようにきれいだった。出血と休養のせいか、肌は以前より少し白くすら見える。


 伊織はしばらく彼を見つめていた。


「本当に、奇跡みたいです」


 蓮は答えず、帽子のつばを少し下げた。


 伊織はようやく、自分が信じられる理由を見つけたようだった。


 もしかしたら、天も蓮をもう一度高い場所へ戻したがっているのかもしれない。


 新しいドラマは一か月後にクランクインする。


 水野悠介監督の新作だった。水野はここ数年、業界内で期待されている若手監督だ。前二作の映画はいずれも評判がよく、新人監督賞も受けている。今回はテレビドラマの企画だが、配信プラットフォーム、制作会社、スポンサーが共同で進める作品で、業界の注目度は低くない。


 蓮が演じるのは男三番手だった。


 だが、役はかなりおもしろい。


 表向きは穏やかで抑制のきいた、ヒロインのそばにずっと寄り添う若き藩主。ところが終盤、実は彼こそが裏で一連の出来事を動かしていた人物だと明かされる。最後には、ほとんど自壊するような形で救われる。


 うまく演じれば、視聴者の記憶に残る役だった。


 水野と蓮は長い付き合いだった。


 水野は有名になってから、冗談めかして言ったことがある。蓮が演じたいと言うなら、自分の脚本には必ず一つ席を空けておく、と。今回、蓮から電話を受けると、水野はその夜のうちに男三番手の人物像を調整し、この役に重要な場面をいくつか加えた。


 その後の数日、蓮はほとんど家にいた。


 台本は何度もめくられ、だんだん古びていった。大事な台詞の横にはメモがびっしり書き込まれ、感情の転換点には色の違うペンで印が入っている。伊織が資料を届けに来たとき、そのページいっぱいの書き込みを見て何も言わず、新しいスケジュール表だけをテーブルに置いた。


 清司は五日間、台詞を聞かされ続けた。


 五日目の夕方、ついに耐えられなくなったらしい。


「少しくらい静かにできないのか」


 飾り窓の上に座り、金の瞳に冷たさを浮かべていた。


「覚えられないほど愚かなら、外へ出て私の人探しを手伝え」


 蓮は顔を上げなかった。


 同じ台詞をもう一度黙読し、清司の言葉が聞こえなかったかのように振る舞った。


 清司の姿が窓辺から消え、次の瞬間には蓮の正面に現れた。


 冷たい手が蓮の首を押さえる。


「私を出し抜こうとするな」


 彼は蓮を見下ろした。


「お前を苦しませる方法など、いくらでもある」


 呼吸が少しずつ塞がれる。


 蓮の手から台本が滑り落ち、紙が床に広がった。それでも彼の目は冷たかった。自分の生死など、そこに置いていないかのように。


「どうして怖がらなきゃならない」


 声はひどく低く押さえられていた。


「どうせ俺には、もう何もない」


 両親がいなくなった時点で、蓮の世界は半分以上空になっていた。


 それでも、まだ手放せないものがあるとすれば、一つだけだった。


 あの人に、自分も十分高い場所へ立てるのだと見せていない。


 清司の指がわずかに止まった。


 その目を、彼はよく知っていた。


 冷淡で、静かで、とうに世界そのものに飽きているような目だ。人間はたった数十年しか生きないくせに、なぜそんな目をするのか、清司にはわからなかった。


 彼は手を離した。


 蓮は腰を折り、首を押さえてしばらく咳き込んだ。ようやく空気を吸い込む。


 清司は視線をそらした。


「まだ、お前には使い道がある」


 蓮は呼吸を整えると、黙って床に散った台本を拾い、閉じた。


「行くぞ」


 清司は眉を上げた。


 蓮は黒いジャージに着替え、キャップと不織布マスクで顔をほとんど隠した。


 最近の救助事故で何度かXのトレンドに入っている。彼は本当の人気俳優ではないが、誰かに気づかれる可能性はある。


 台詞はほとんど頭に入っていた。外へ出ることも、時間の無駄ではない。ちょうど、蓮が好きなミステリー作家、森崎悠真のサイン会が池袋の書店で行われる。人は多いはずだった。


 池袋の書店のイベントフロアには、人があふれていた。


 若い読者たちは美しい装丁の新刊を抱え、エスカレーターで三階へ上がっていく。列には高校生も大学生も、仕事帰りの女性たちもいた。彼女たちは作中の事件や人物関係、新刊に隠された伏線について声を潜めて話していたが、興奮は隠しきれていなかった。


 蓮はその人混みに紛れると、むしろ落ち着いた。


 清司は隣を歩き、周囲の熱気とはまるで噛み合わない冷めた顔をしていた。


 三階のサイン会場には、すでに長い列ができている。


 展示台の向こうで、若い男が紺がかった青のスーツを着て、読者の本に丁寧にサインしていた。作中の台詞を書いてほしいと言われればその通りに書き、顔を上げて笑ってほしいと頼まれれば、少し照れたように本当に顔を上げる。


 会場から、抑えた悲鳴が起きた。


 蓮は足を止めた。


 あれほど緻密で陰鬱な構成、息が詰まるほど複雑な人間関係を書く作家が、こんな静かな青年だとは思っていなかった。


 森崎悠真の肌は病的なほど白い。長く執筆していて日光を浴びないせいだろう。だがその白さは死んだような色ではなく、笑うとむしろ柔らかく見えた。照明に照らされた紙のようだった。


 蓮はもともと一目見るだけで帰るつもりだった。


 そのとき、清司がふいに角のほうを向いた。


 蓮はすぐにその変化に気づいた。


「どうした」


 角は薄暗く、イベントエリアと非常通路の間にある影のような場所だった。ほとんど人は通らない。だが蓮がそこを見た瞬間、首の後ろに冷たいものが走った。


 清司は目を細めた。


「面白い」


 そう言うと、彼は突然、反対方向へ歩き出した。


 蓮は、今回は清司の探している相手ではないのだろうと思った。


 胸の奥に一瞬だけ失望がよぎる。


 そのまま帰ろうとしたとき、角のセンサーライトが白く点いた。冷たい光が目に刺さる。蓮が思わず目を細め、次に視界を戻したとき、一人の男が目の前に立っていた。


「……佐伯蓮さん。本当に、あなたですか」


 相手はかなり急いで走ってきたらしい。


 白すぎる頬に少し赤みが差し、手にはサインペンを握っている。あまりに興奮しているせいか、指先が小さく震えていた。


 蓮は彼を認識した。


「森崎先生?」


 展示台越しに座っていたときはわからなかったが、こうして立つと、森崎は蓮より少し背が高かった。


 森崎の目は驚くほど明るかった。


「はい。佐伯さん、僕、本当にあなたが好きなんです。ここで会えるなんて、すごく嬉しいです」


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