あと一歩の邂逅
顔が蓮にとって、何より大切だったわけではない。
俳優にカメラが必要なことはわかっている。カメラが外見を拡大することも知っている。それでも蓮は、最終的に役を残すのは演技だと信じてきた。
だから、傷跡が残ることは怖くなかった。
少なくとも、もともとは怖くなかった。
今、本当に気になるのは狐印と呼ばれたものだ。
伊織との話を終えたあと、蓮は彼が持ってきた朝食を受け取り、先に食堂で何か食べてくるように言ってから、一人で浴室へ入った。
鍵が落ちる。
浴室には湯気と鏡だけが残った。
蓮は鏡の前に立ち、ガーゼの端に指をかけたまま長く止まった。それから、ゆっくり剥がした。
濃い紫色の煙が、傷口から一筋立ち上る。皮膚の下に閉じ込められていた霧のようだった。鏡の中の顔には、何の痕もない。肌は清潔で、輪郭もはっきりしている。昨夜、半分の顔を裂きかけたあの傷など、最初から存在しなかったように見えた。
だが指先でそこに触れた瞬間、蓮の背筋は冷えた。
めくれた肉の感触は、まだそこにある。
あまりにも生々しい。
やはりそうだ。
見えないだけだった。
背中の傷も、おそらく同じだ。
蓮はそれ以上確かめなかった。残りの包帯を外し、熱い湯を張った浴槽へ入る。湯が肩まで浸かったとき、ようやく少し息をつけた。
その時、よりにもよって清司が戻ってきた。
白髪の妖狐は壁を抜けて現れ、まず食堂のほうを一度見てから、浴室へ入ってきた。
蓮は目を閉じた。
「人の浴室に入る前に、せめてノックくらいできないのか」
清司は壁にもたれ、蓮を一度見てから外へ視線を流した。
「お前たちは、そういう関係だったのか」
「どういう関係だ」
「別に」
清司はすぐに興味を失った。
「近くで探せる場所はすべて見た。いない。お前の行動範囲をもっと広げられないのか」
「誰かさんのおかげで、無理だ」
蓮は怪我をしたばかりで、すぐに脚本や仕事を受けられる状態ではない。仮に本当に仕事が来ても、急に顔が治っていることをどう説明するのか。
九尾の妖狐に遭遇し、無理やり血契を結ばれたからだとでも言うのか。
冗談にもならない。
清司は棘のある言葉に答えなかった。
蓮に人を助けろと言ったのは清司ではない。
朔を探して長い時間が経っている。今さら少し遅れたところで変わらない。ただ、一度空振りするたび、古い傷をもう一度裂かれるような気分になるだけだった。
清司は窓辺へ移り、遠くを見た。
清司と朔の関係は、人間が考えるような熱烈な恋愛ではなかった。
長い歳月の中で、妖怪はあまりにも多くの別れを見る。ずっとそばに残る存在は、それだけで習慣になり、帰る場所になる。清司と朔にとって、互いはかつてそういう存在だった。
けれど朔は隠り世を去った。
二度と戻らなかった。
同じ頃、国立競技場の上空にアナウンスが響いていた。
「男子千五百メートル決勝の選手は、入場口へお集まりください」
待機エリアでは、各地から集まった選手たちが次々に立ち上がっていた。コーチ、スタッフ、カメラ、ボランティアが通路を行き交い、試合前の緊張が見えない網のように全員の上へ張りつめている。
通路の陰だけが、ぽっかりと空いていた。
「律、そろそろ行く時間だ」
宵宮朔の声は低く抑えられていた。
彼は早乙女律に壁際へ追い込まれていた。黒い翼は背中に畳まれているが、相手の動きに合わせて羽根の先がわずかに震えた。
律は日本代表のユニフォームを着ている。前髪が眉へかかっていた。カメラの前では礼儀正しく、明るく、抑制のきいた選手だ。けれど朔だけが、この男が私生活でどれほどわがままかを知っている。
「あと少し」
律は顔を近づけた。
朔は手を上げ、彼の胸を押さえる。
「その少しで、コーチが本当に探しに来るぞ」
他人には朔が見えない。
周囲から見れば、早乙女律は通路の隅で一人立ち、目を閉じて集中しているだけに見える。彼の前に、少年時代から寄り添ってきた鴉天狗が立っていることなど、誰も知らない。
律はようやく動きを止め、額をそっと朔の肩へ当てた。
「悪かった。怒るな」
「早く行け」
律は顔を上げると、目元に笑みを戻した。
「優勝してくる」
彼は足早に入場口へ向かった。
朔はその場に立ち、律の背中を見送り、小さく息を吐いた。
たしかに、彼は律の成長を見守ってきた。
最初に呼び出されたとき、律は怪我で走ることをほとんど諦めかけた少年だった。医師には、もう競技に戻れないかもしれない、長期治療も覚悟すべきだと言われていた。あの頃の律は病院の廊下に立ち、目に光がなかった。
朔は彼の身体を救った。
だが、その後の道は律が自分の足で走って戻ってきた。
朔は怪我を安定させ、見えない厄災を遠ざけることはできる。けれど代わりに競技で勝つことはできない。
律も、それを許さなかった。
少年だった律は、真剣な顔で言ったことがある。
「お前は、俺にもう一度走れる未来をくれた。あとは自分で取る」
号砲が鳴った。
最初のスタートはすぐに止められた。フライングした選手がいて、審判にレーンから外される。世界大会はこうしたミスに寛容ではない。場内がわずかにざわめいたあと、すぐに静まった。
二度目の合図。
選手たちがスタートラインを飛び出す。
千五百メートルは、ペース、位置取り、最後のスパートがものをいう。律の走りは安定していた。前半は余計な動きがほとんどない。朔は観客席前の手すりに座り、視線をずっと律へ向けていた。
最後の一周で、律は良い位置を取っていた。
朔はふいに眉をひそめた。
律の視線が、一瞬だけ逸れた。
本当に短い一瞬だった。だが、その半拍で速度が落ちた。
半拍は、勝敗を分けるには十分だった。
海外選手のマックス・リードがその隙をついて前へ出て、先にゴールラインを越えた。律は一秒に満たない差で二位になった。
朔がそばへ飛んでいったとき、律はスタッフから日の丸を受け取っていた。
彼は笑って、髪を軽くかいた。
「ミスったな、朔」
朔は律の隣へ降りた。
「次だ」
彼は律が先ほど目を逸らした方向を見た。
「何を見た」
律は日の丸を肩にかけ、カメラとスタッフを避けながら出口へ歩いていった。
「人だ」
声が少し低くなる。
「妙な感じがした。うまく言えない」
「二位でそんなに嬉しそうか」
挑発を含んだ日本語が背後から飛んできた。
マックス・リードが近づいてくる。顔には勝者の笑みが浮かんでいた。律とは競技場ではライバル、場外でも別に仲が良いわけではない。こうした挑発はカメラの前なら競技の火花と言われるかもしれないが、私的に聞けば腹が立つだけだった。
律が足を止めた。
朔はすぐに彼の前へ立つ。
「やめろ。明日も競技がある」
審判はすでにこちらの動きに気づき、歩いてきていた。
律は朔を見た。
数秒後、握りしめていた手を緩め、冷めた目でマックスを一瞥した。
「口を慎め」
そう言って、歩き出した。
朔は観客席を振り返る。
さっき律の集中を乱した相手は、誰だったのか。
観客席の陰に、佐伯蓮がキャップとマスク姿で静かに座っていた。
蓮はスポーツ観戦にあまり興味がない。
だが白銀清司が現れてから、彼は人の多い場所へ行くしかなくなった。
清司は蓮の横に立ち、金の瞳で競技場、観客席、通路、人波を順に見ていた。ある瞬間、その表情が変わる。
蓮はすぐに気づいた。
「見つけたのか」
清司は答えなかった。
彼は選手出口を見つめ、目の奥に金の光を走らせた。
だが次の瞬間、その気配は消えた。
蓮が視線を追うと、見えたのは日の丸をまとって去っていく若い選手と、人混みとカメラだけだった。
清司の唇がゆっくり引き結ばれる。
あと少し。
本当に、あと少しだった。




