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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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4/16

妖狐に人混みへ押し出されて

 清司が扉のほうを見た瞬間、蓮は伊織が入ってきたのだとわかった。


 病室に突然現れた男を、どう説明すればいいのかまだ考えていなかった。次の瞬間、清司は窓台から立ち上がり、九本の尾を完全にしまい、白髪も人間が見ても違和感のない姿へと隠した。


 あの金色の瞳さえ見なければ、ほとんど普通の人間にしか見えない。


 清司は伊織の背後へ歩いた。


 伊織は何の反応もしなかった。


「他人には私が見えない」


 清司の声は、蓮にだけ届いた。


「妙な顔をするな」


 蓮の険しい眉間が、少しずつほどけた。


 俳優にとって表情を制御するのは基本だ。まして今の蓮に、ほかの選択肢はない。


「病室は息が詰まる」


 蓮は伊織を見た。


「朝のうちに出よう」


「はい」


 伊織は朝食を置いた。


 退院手続きは昨夜のうちに整えてある。病院側も、病棟でこれ以上マスコミに張られるよりは、自宅で静養することを勧めていた。伊織は新しい服を持ってきて、蓮が背中の傷で動きづらそうにしているのを見ると、すぐに手伝った。


 蓮は断らなかった。


 柔らかな私服は病衣よりずっと楽だった。着替えを終えると、蓮は眼鏡とマスクをつけ、帽子のつばを低く下げ、伊織と前後して病室を出た。


 清司はその後ろをついてくる。蓮にしか見えない影のようだった。


 病院には、芸能人がひっそり出られるような裏口はない。


 事務所の広報は事前に病院側と話をつけ、正面玄関の外には警備員を立たせ、院内の警備もロビーの秩序を守っていた。だが蓮の入院はすでに広まっており、退院の時間までどこからか漏れていたらしい。一階ロビーには媒体、ファン、そして野次馬が集まっていた。


 蓮が現れた途端、誰かが気づいた。


「佐伯くん」


「怪我は大丈夫ですか」


「こちらを向いてください」


 人の波が前へ押し寄せ、警備員とボディーガードがすぐに押しとどめた。


 蓮は普段、あまりサインをしない。


 気取っているわけではない。そもそも大きく売れているわけでもなく、公の場に出る機会も少ない。ファンの数も多くないから、直接会える機会はさらに少なかった。


 このとき、蓮は足を止め、ポケットからペンを出して、近くの数人にだけ名前を書いた。


 伊織が耳元で声を潜める。


「蓮さん、外へ出るだけで大丈夫です。車はすぐそこです」


 伊織は蓮が派手なことを好まないと知っている。


 まして今は怪我をした直後だ。人混みの中に長くいるべきではない。


 蓮はうなずき、横目で清司を見た。


 清司は人垣の端に立ち、金の瞳で一人一人の顔を追っていた。最後に、ごく小さく首を振る。


 いない。


 蓮は自分が落胆しているのか、安堵しているのか、よくわからなかった。


 病室を出てすぐに清司の探す相手が見つかるなど、最初から期待していない。だが血契がある限り、彼はこの荒唐無稽な可能性を抱え続けるしかない。


 数人はようやく車へ誘導された。


 扉が閉まった瞬間、外の音は遮断された。


 蓮はシートにもたれ、背中へ手を伸ばした。昨日は少し動くだけで痛んだはずの傷が、今はまったく何も感じない。


 顔も同じだった。ガーゼの下に痛みはない。まるで何も起きなかったようだった。


 狐印は傷を隠すだけでなく、痛みまで消している。


 それが、かえって蓮を不安にさせた。


 痛みは少なくとも、現実の警告だった。今はその痛みすら奪われ、身体が本当はどうなっているのかさえわからない。


 清司は車に乗らなかった。


 彼は病院前の人混みの中に立ち、一人で周囲を回った。


 普通、妖怪は契約者と長く離れない。契約者が死ねば、契約が途中で切れる恐れがあるからだ。だが今の清司には、そんなことを気にしている余裕はなかった。


 彼が探しているのも、妖怪だった。


 宵宮朔。


 かつて隠り世で長い時をともに過ごした、魂契の相手。


 朔は隠り世を離れてから、二度と戻らなかった。隠り世と現世では時間の流れが違う。人間にとっては数年、数十年にすぎないかもしれない。けれど清司にとっては、終わりの見えない荒野のように引き伸ばされた時間だった。


 彼はすでに多くの場所を探した。


 この国にもいなければ、事態はさらに厄介になる。


 車内で、伊織は蓮を見つめていた。


「昨日から、ずっと気持ちが沈んでいるように見えます。本当に大丈夫ですか」


「何でもない」


 蓮はスマートフォンを見下ろした。


「少し考え事をしているだけだ」


 画面では、Xのフォロワー数がまだ増えていた。


 救助動画は何度も拡散され、コメント欄には称賛もあれば、傷のことを心配する声もある。さらに芸能アカウントは「佐伯蓮、このまま引退か」などという見出しまでつけていた。


 蓮はその数字を見ても、心はあまり動かなかった。


 これからの日々が変わることは、予想できている。


 しかも、自分が好まない方向へ変わっていくのだろう。


 車は世田谷の低層住宅地へ入り、入口で止まった。奥は私道で、外部の車は自由に入れない。周囲の植栽は手入れが行き届いていて、家と家の間隔も広い。東京とは思えないほど静かだった。


 伊織が蓮のために扉を開けた。


 蓮は軽く顎を上げた。


「中まで来てくれ」


 運転手は外に残った。


 蓮は伊織を連れ、私道を歩いた。楓の並びと低い石垣を抜けると、古い一軒家が見えてきた。成金めいた豪華さではない。静かで、抑制され、よく手入れされた邸宅だった。


 玄関を入ると、伊織はさらに言葉を失った。


 木の床。広いリビング。庭には小さな枯山水。家具は多くないが、一つ一つがきちんと選ばれたものに見える。


 芸能人の家にありがちな見せびらかしはなく、むしろ時間の中に大切に残された家のようだった。


 伊織はうまく言葉を探せなかった。


 自分は蓮のことを、かなり知っているつもりでいた。


 けれど蓮は、自分の生活をほとんど見せたことがなかったのだ。


「座って」


 蓮は湯を入れたコップをテーブルに置き、伊織の向かいに座った。


「話しておきたいことがある」


 清司がいないうちに話しておきたかった。


 あの妖狐に、自分が従順だと勘違いされたくない。結局のところ、蓮はただ早くこの契約から解放されたいだけだった。


「俺があまり目立つのを好まないのは、知っているだろう」


 伊織は水のコップを握ったまま動きを止めた。


「わかっています。事務所が入れてくる仕事は、できるだけ調整します」


「そうじゃない」


 蓮は伊織を見た。


「これからは、少し目立つようにしてくれ」


 伊織は固まった。


「え?」


 仕事がなければ、画面に映る機会もない。画面に映る機会がなければ、蓮が世間の前に出ることも少ない。これまでずっと蓮はそうしてきたし、伊織もそれが蓮の望む形だと思っていた。


 だが今、蓮は自分から目立つと言った。


 伊織は病院ロビーで蓮が立ち止まり、ファンにサインをしたことを思い出した。


 あれは気まぐれではなかったのだ。


「顔の傷で、仕事に影響が出るのを心配しているんですか」


「違う」


 蓮は目を伏せた。


「知っているだろう。俺は芝居が好きなだけだ」


 少しだけ間を置く。


「理由を聞かれたら、旭くんの昨日の態度が少し気に入らなかったことにしておいてくれ」


 その場で作った理由だった。


 伊織は賢い。根掘り葉掘り聞かないだろう。蓮がより多くの露出を受け入れることは、事務所にとって本来いいことだった。


 それでも伊織は、しばらく蓮を見つめていた。


「手配します」


「ああ」


 蓮は短く応じた。


 今、本当に気がかりなのは仕事ではない。


 自分の顔だ。


 見えないのに確かにある、あの狐印だった。

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