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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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3/16

月下の血契

「取材は十分です」


 伊織はベッドの脇に立ち、丁寧な口調のまま一歩も退かなかった。


 俳優本人が言いにくいことは、マネージャーが代わりに言わなければならない。まして今、蓮は病院のベッドにいる。高橋真紀が見舞いを広報に使いたい気持ちは理解できるが、蓮を素材として消耗させるわけにはいかなかった。


 井上沙耶はうなずき、レコーダーを入れた。


「佐伯さんの怪我について、多くのファンが心配しています。傷はお顔だと伺っていますが、今後のお仕事への影響について、お話しできる範囲で教えていただけますか」


 彼女の視線は一瞬、蓮のガーゼへ落ち、すぐに戻った。


 蓮の声は高くないが、はっきりしていた。


「傷の経過はまだ見なければわかりません。たとえ痕が残ったとしても、芝居を続けることに変わりはありません。ご心配ありがとうございます」


「朝比奈さんを助けるために飛び出した瞬間の映像が、すでにネットで広まっています。あのとき、何を考えていましたか」


「考える時間はありませんでした」


 蓮は旭を見る。


「助けることが最優先でした。旭くんが怪我をしなかったなら、それで十分です」


 椅子に座っていた旭は、すぐにうなずいた。


 何か言いたそうに見えたが、カメラの前であることを意識したのか、最後には低く「ありがとうございます」と言っただけだった。


 十分が過ぎ、蓮はすべての質問に答え終えた。


 伊織が井上を送り出し、高橋真紀もそれに続いた。記者に記事の方向性を念押しするためかもしれないし、旭と蓮を少しだけ二人にするためかもしれなかった。


 病室には二人だけが残った。


 旭はベッド脇に立ったまま、長く黙っていた。


「……見てもいいですか」


 蓮は、彼が傷のことを言っているとわかった。


 看護師が包帯を替えたばかりで、誰かに見せるためにガーゼを外したいとは思わない。まして、救われた側に傷を見せることに意味があるとも思えなかった。


「やめておこう」


 旭は目を伏せた。


「……本当に、ありがとうございました」


「気にしなくていい」


 病室にまた沈黙が落ちた。


 旭は衣服の端を握りしめ、やっと別の話題を見つけたように口を開いた。


「降板の話、聞きました。俺のほうに、いい脚本が一つあります。監督も急いでいない作品です。傷が落ち着いたら、読んでもらえるようにします」


 伊織が扉を開けて戻ってきたとき、ちょうどその言葉が耳に入った。


 足が一瞬止まる。


 蓮の表情は大きく変わらなかった。けれど伊織にはわかる。このタイミングで脚本の話を持ち出すのは適切ではない。蓮は怪我のせいで役を失ったばかりだ。旭の言葉は慰めのようで、無意識にもう一度傷口を開くようにも聞こえた。


 蓮の喉が小さく動いた。


「必要になったら、こちらから……ありがとう」


 言い終わる前に、彼はふいに言葉を止めた。


 喉の奥に何かが詰まるようだった。続いて、抗えない眠気が上から押しつぶしてくる。白い天井がぼやけ始めた。


 旭は、蓮が会話を続けたくないのだと思ったらしい。気まずそうな表情をした。


 伊織はすぐに前へ出た。


「蓮さんは休まなければなりません。朝比奈さん、今日はここまででお願いします」


 医師はすぐに来て診察した。


「眠っているだけです。身体も精神も疲れきっていますから、ゆっくり休ませてください。食事は栄養を意識して」


 蓮には、その会話が聞こえていた。


 だが目を開けられなかった。


 指先一本動かせない。


 声は次第に遠くなり、厚い水の膜に隔てられていくようだった。


 彼が再び身体を動かそうとしたとき、病室はすでに深夜に沈んでいた。


 窓の外の月は明るかった。冷たい白い光が床に落ちている。紫がかった黒い霧が床から這い上がり、生き物のように蓮の手足へ絡みついた。


 蓮は眉を寄せた。


 動けない。


 金縛りか。


 そう思った瞬間、目の前の光景がその考えを否定した。


 一人の男が、彼の上に浮かんでいた。


 白い髪。金色の瞳。その背後で、九本の狐尾がゆっくり広がっていく。尾はどれも月光に浸されたように白く冷たく、病室全体を埋め尽くすほどだった。


 男は蓮を見下ろし、苛立った顔をしていた。


「私を呼んだのは誰だ」


 蓮は声を出そうとした。


「俺は呼んでいない」


「……お前は」


「呼んでいない」


 同じ言葉を二度遮られ、男の目は完全に冷えた。


 金色の瞳孔がわずかに細まり、蓮は一瞬で呼吸できなくなった。空気が見えない手に抜き取られたようだった。蓮はその九尾の妖狐が、ゆっくりと顔を近づけてくるのを見るしかない。


「お前の御魂を証に私と血契を結び、私に願いを叶えさせる気はあるか」


 圧迫感がふっと緩んだ。


 蓮は大きく息を吸い、胸を上下させた。


 夢ではない。


 それだけは、もうわかった。


「断る」


 九尾の妖狐は、ひどく可笑しいものを聞いたように見えた。


「これは問いではない」


 彼はさらに近づき、金の瞳には温度がなかった。


「恨むなら、余計なことをした自分を恨め。人を助けたときに流した血が隠り世の陣に触れ、私をここへ引き寄せた」


 蓮は歯を食いしばった。


「脅しか」


「違う」


 妖狐は唇の端をわずかに上げた。


「強制だ」


 蓮の身体が勝手に動いた。


 彼の手は意思に反して上がり、掌が妖狐へ向かう。相手に近づくほど、寒さが深くなった。骨まで凍り割れそうだった。


 掌が痛んだ。


 血の珠が浮かび上がり、月光の中で暗赤色の符文へ変わる。


「最後の一言だ」


 妖狐の声が耳元に落ちた。


「私が代わりに言ってやるか。それともお前が言うか」


 蓮は冷たく彼を見た。


「まだ拒めるのか」


 九本の尾が一斉に収束した。


 白い影が蓮の身体へぶつかる。


 その瞬間、蓮の瞳孔が異様な金色に染まった。彼の声と妖狐の声が重なり、喉から同じ言葉がこぼれた。


「承知した」


 ガーゼの下の傷口に、紫の狐火が灯る。


 しばらくして、妖狐は蓮の身体から抜け出し、窓台に腰を下ろした。月光が彼の上に落ち、白い髪を夜から切り離しているように見えた。


「これで、少しは話を聞けるだろう」


 蓮は熱を持つ頬を押さえた。


 背中の傷も、火で焼かれたように疼いた。白銀清司と名乗ったこの妖狐が自分に何をしたのか、蓮にはわからない。ただ直感だけが告げていた。決して良いものではない。


 蓮は深く息を吸った。


「話せ」


「狐印でお前の傷を隠した」


 清司は彼を見た。


「代わりに、人を探せ」


 蓮の指先が止まった。


 隠した。


 治したのではない。


「誰を」


「わからない」


 蓮は顔を上げた。


「わからない?」


「現世にいることだけはわかっている」


 清司は当然のように言った。


「できるだけ多くの人間に触れろ。私が探す」


 蓮は思わず笑いそうになった。


「見つからなかったら」


「見つかるまで探す」


 金の瞳は少しも揺れなかった。


「お前が死んだら、別の契約者に替えればいい」


 蓮はゆっくり身体を起こし、手の甲に刺さっていた針を抜いた。


 今、自分が何をしても無駄だとわかっている。相手は人間ではない。道理も通じず、この世界の規則にも従わない。


「見つけたら、出ていくんだな」


 清司は答えなかった。


 沈黙は肯定と同じだった。


 蓮はもともと、今日には退院して家で休むつもりだった。清司にこんな騒ぎを起こされて、なおさら病院に残る気が失せた。


 こうして二人は、病室の端と端で向かい合ったまま、朝を迎えた。


 夜が明け、伊織が朝食を持って病室へ入ってきた。


 彼はベッドの上で窓を見つめる蓮を見つけた。


「蓮さん?」

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