月下の血契
「取材は十分です」
伊織はベッドの脇に立ち、丁寧な口調のまま一歩も退かなかった。
俳優本人が言いにくいことは、マネージャーが代わりに言わなければならない。まして今、蓮は病院のベッドにいる。高橋真紀が見舞いを広報に使いたい気持ちは理解できるが、蓮を素材として消耗させるわけにはいかなかった。
井上沙耶はうなずき、レコーダーを入れた。
「佐伯さんの怪我について、多くのファンが心配しています。傷はお顔だと伺っていますが、今後のお仕事への影響について、お話しできる範囲で教えていただけますか」
彼女の視線は一瞬、蓮のガーゼへ落ち、すぐに戻った。
蓮の声は高くないが、はっきりしていた。
「傷の経過はまだ見なければわかりません。たとえ痕が残ったとしても、芝居を続けることに変わりはありません。ご心配ありがとうございます」
「朝比奈さんを助けるために飛び出した瞬間の映像が、すでにネットで広まっています。あのとき、何を考えていましたか」
「考える時間はありませんでした」
蓮は旭を見る。
「助けることが最優先でした。旭くんが怪我をしなかったなら、それで十分です」
椅子に座っていた旭は、すぐにうなずいた。
何か言いたそうに見えたが、カメラの前であることを意識したのか、最後には低く「ありがとうございます」と言っただけだった。
十分が過ぎ、蓮はすべての質問に答え終えた。
伊織が井上を送り出し、高橋真紀もそれに続いた。記者に記事の方向性を念押しするためかもしれないし、旭と蓮を少しだけ二人にするためかもしれなかった。
病室には二人だけが残った。
旭はベッド脇に立ったまま、長く黙っていた。
「……見てもいいですか」
蓮は、彼が傷のことを言っているとわかった。
看護師が包帯を替えたばかりで、誰かに見せるためにガーゼを外したいとは思わない。まして、救われた側に傷を見せることに意味があるとも思えなかった。
「やめておこう」
旭は目を伏せた。
「……本当に、ありがとうございました」
「気にしなくていい」
病室にまた沈黙が落ちた。
旭は衣服の端を握りしめ、やっと別の話題を見つけたように口を開いた。
「降板の話、聞きました。俺のほうに、いい脚本が一つあります。監督も急いでいない作品です。傷が落ち着いたら、読んでもらえるようにします」
伊織が扉を開けて戻ってきたとき、ちょうどその言葉が耳に入った。
足が一瞬止まる。
蓮の表情は大きく変わらなかった。けれど伊織にはわかる。このタイミングで脚本の話を持ち出すのは適切ではない。蓮は怪我のせいで役を失ったばかりだ。旭の言葉は慰めのようで、無意識にもう一度傷口を開くようにも聞こえた。
蓮の喉が小さく動いた。
「必要になったら、こちらから……ありがとう」
言い終わる前に、彼はふいに言葉を止めた。
喉の奥に何かが詰まるようだった。続いて、抗えない眠気が上から押しつぶしてくる。白い天井がぼやけ始めた。
旭は、蓮が会話を続けたくないのだと思ったらしい。気まずそうな表情をした。
伊織はすぐに前へ出た。
「蓮さんは休まなければなりません。朝比奈さん、今日はここまででお願いします」
医師はすぐに来て診察した。
「眠っているだけです。身体も精神も疲れきっていますから、ゆっくり休ませてください。食事は栄養を意識して」
蓮には、その会話が聞こえていた。
だが目を開けられなかった。
指先一本動かせない。
声は次第に遠くなり、厚い水の膜に隔てられていくようだった。
彼が再び身体を動かそうとしたとき、病室はすでに深夜に沈んでいた。
窓の外の月は明るかった。冷たい白い光が床に落ちている。紫がかった黒い霧が床から這い上がり、生き物のように蓮の手足へ絡みついた。
蓮は眉を寄せた。
動けない。
金縛りか。
そう思った瞬間、目の前の光景がその考えを否定した。
一人の男が、彼の上に浮かんでいた。
白い髪。金色の瞳。その背後で、九本の狐尾がゆっくり広がっていく。尾はどれも月光に浸されたように白く冷たく、病室全体を埋め尽くすほどだった。
男は蓮を見下ろし、苛立った顔をしていた。
「私を呼んだのは誰だ」
蓮は声を出そうとした。
「俺は呼んでいない」
「……お前は」
「呼んでいない」
同じ言葉を二度遮られ、男の目は完全に冷えた。
金色の瞳孔がわずかに細まり、蓮は一瞬で呼吸できなくなった。空気が見えない手に抜き取られたようだった。蓮はその九尾の妖狐が、ゆっくりと顔を近づけてくるのを見るしかない。
「お前の御魂を証に私と血契を結び、私に願いを叶えさせる気はあるか」
圧迫感がふっと緩んだ。
蓮は大きく息を吸い、胸を上下させた。
夢ではない。
それだけは、もうわかった。
「断る」
九尾の妖狐は、ひどく可笑しいものを聞いたように見えた。
「これは問いではない」
彼はさらに近づき、金の瞳には温度がなかった。
「恨むなら、余計なことをした自分を恨め。人を助けたときに流した血が隠り世の陣に触れ、私をここへ引き寄せた」
蓮は歯を食いしばった。
「脅しか」
「違う」
妖狐は唇の端をわずかに上げた。
「強制だ」
蓮の身体が勝手に動いた。
彼の手は意思に反して上がり、掌が妖狐へ向かう。相手に近づくほど、寒さが深くなった。骨まで凍り割れそうだった。
掌が痛んだ。
血の珠が浮かび上がり、月光の中で暗赤色の符文へ変わる。
「最後の一言だ」
妖狐の声が耳元に落ちた。
「私が代わりに言ってやるか。それともお前が言うか」
蓮は冷たく彼を見た。
「まだ拒めるのか」
九本の尾が一斉に収束した。
白い影が蓮の身体へぶつかる。
その瞬間、蓮の瞳孔が異様な金色に染まった。彼の声と妖狐の声が重なり、喉から同じ言葉がこぼれた。
「承知した」
ガーゼの下の傷口に、紫の狐火が灯る。
しばらくして、妖狐は蓮の身体から抜け出し、窓台に腰を下ろした。月光が彼の上に落ち、白い髪を夜から切り離しているように見えた。
「これで、少しは話を聞けるだろう」
蓮は熱を持つ頬を押さえた。
背中の傷も、火で焼かれたように疼いた。白銀清司と名乗ったこの妖狐が自分に何をしたのか、蓮にはわからない。ただ直感だけが告げていた。決して良いものではない。
蓮は深く息を吸った。
「話せ」
「狐印でお前の傷を隠した」
清司は彼を見た。
「代わりに、人を探せ」
蓮の指先が止まった。
隠した。
治したのではない。
「誰を」
「わからない」
蓮は顔を上げた。
「わからない?」
「現世にいることだけはわかっている」
清司は当然のように言った。
「できるだけ多くの人間に触れろ。私が探す」
蓮は思わず笑いそうになった。
「見つからなかったら」
「見つかるまで探す」
金の瞳は少しも揺れなかった。
「お前が死んだら、別の契約者に替えればいい」
蓮はゆっくり身体を起こし、手の甲に刺さっていた針を抜いた。
今、自分が何をしても無駄だとわかっている。相手は人間ではない。道理も通じず、この世界の規則にも従わない。
「見つけたら、出ていくんだな」
清司は答えなかった。
沈黙は肯定と同じだった。
蓮はもともと、今日には退院して家で休むつもりだった。清司にこんな騒ぎを起こされて、なおさら病院に残る気が失せた。
こうして二人は、病室の端と端で向かい合ったまま、朝を迎えた。
夜が明け、伊織が朝食を持って病室へ入ってきた。
彼はベッドの上で窓を見つめる蓮を見つけた。
「蓮さん?」




