白い髪と消えた記憶
清司は蓮に服を着せ、朝食を一卓用意した。
台所から漂う香りも、テーブルに並んだ料理も食欲を誘う。だが蓮は席についたまま、どうしても違和感を拭えなかった。
何かを忘れている。
けれど何を忘れたのか、どれだけ考えても思い出せない。
「清司」
蓮は眉を寄せた。
「なんだかずっと変なんだ」
「何かを忘れてる気がする」
清司の胸がひやりとした。
すぐ笑みを作り、蓮の肩を軽く叩く。
「考えすぎるな」
「食事をしろ」
蓮は彼を見た。この妖狐も、どこか変だった。
朝食のあと、蓮は撮影現場へ行くと言い出した。
清司は一瞬、明らかに狼狽した。
彼が力を失い、身を隠していた間、劇組では隙を突かれている。どう処理するべきか。
蓮は目を細める。
「清司、君も変だぞ」
「何か隠してないか?」
清司は心虚そうに笑った。
「そんなわけないだろう」
ちょうどその時、伊織から電話がかかってきた。
蓮が出ると、電話口の伊織は焦っているのに嬉しそうだった。
「蓮、劇組がまたあの役を続けてほしいって言ってきました」
「本当に良かったです」
また。
蓮は顔を上げ、清司を見た。
何かがおかしい。
「あの役は、ずっと俺が演じていたんじゃないのか?」
「どういうこと?」
電話の向こうで、伊織が言葉に詰まった。
「蓮、忘れたんですか? この前――」
言い終える前に、清司が手を伸ばして通話を切った。
蓮は彼を見つめる。
「どういうことだ?」
清司には説明できなかった。
自分が一度離れたこと。二人の間に亀裂が走ったこと。隙を突いて別の者が近づいたこと。すべて話すべきなのか。
何を失ってもいい。
蓮だけは失えない。
蓮が彼の底線だった。
「蓮」
清司は彼の手を握った。
「俺を信じてくれ」
「俺は絶対にお前を置いていかない」
「だから、もう聞かないでくれないか」
蓮はその手を振りほどいた。
この臭い妖狐は、自分の記憶を消した。
しかも、同意もなく。
「俺の記憶を消したんだな」
蓮は冷たく見た。
「俺に聞いたのか?」
清司はうつむき、指を絡め合わせ、あからさまにしょんぼりした顔をした。
蓮は腹が立つのに、同時に心が少し軟らかくなるのを感じた。
「次は許さない」
その一言を聞いた瞬間、清司の目が明るくなった。
やはり蓮は自分を捨てられない。
彼は蓮を抱き上げ、息が詰まるほど口づけた。蓮の頭の片隅では、消された時間を周囲にどう悟られず合わせるかがまだ回っていた。だが清司は考える余裕を与えなかった。
二人は家で長い時間を使った。
蓮が再び目を覚ました時、外はもう夕方に近かった。身体は一度分解されて組み立て直されたように重い。
呼び鈴が長く鳴っていた。
清司は隣に寝そべり、まるで聞こえていないように扉へ行く気配もない。
蓮はぼんやり起き上がり、上着を羽織って玄関へ向かった。
扉の外には、見知らぬ男が立っていた。
蓮は固まる。
「どちら様ですか?」
鷹宮飛鳥の視線は、蓮の首筋に釘づけだった。
そこに残る赤い痕は、あまりにもはっきりしている。
彼の目が一瞬で赤くなった。
「首のそれは何ですか?」
蓮はようやく気づき、慌てて手で隠す。
目の前の相手とは初対面のはずなのに、どうして裏切られたような顔をするのか。
「すみません。どちら様ですか?」
飛鳥の口元に苦い笑みが浮かぶ。
「佐伯蓮」
「あなたがそういう人だとは思いませんでした」
蓮の顔が冷える。
「言葉には気をつけてください」
「俺はあなたを知りません」
「侮辱するなら、法的に対応することもできます」
「昨日、僕たちは付き合ってもいいと言った人が、翌日には別の男と寝ている」
飛鳥の目には傷があふれていた。
「それで今度は、知らないと言うんですか?」
彼は自分が道化になったように感じた。最初から、すべて自分の思い上がりだったのかもしれない。
「先生」
蓮の声はさらに冷たくなった。
「俺たちは本当に初対面です」
「これ以上侮辱するなら、警察や弁護士に相談します」
その時、清司が奥から歩いてきた。
彼は蓮を背後にかばい、飛鳥を見る目に危険な光を宿す。
「記憶を消したのは俺だ」
「まだ邪魔をするつもりか?」
飛鳥は目を細めた。
ついに本来の気配を見せる。清司と同じように、彼も人間ではなかった。ただ、選んだ道が違うだけだ。
飛鳥は医師という身分を好み、病院で多くの人を救ってきた。誰かを害そうと考えたことはなかった。蓮を好きになってからも、彼の生活を本気で壊そうとはしていない。
ただ今回だけは、めったにない機会だと思った。好きな人と、きちんと一緒にいたかった。
それでも結局、先を越された。
「記憶を消した?」
飛鳥は冷たく笑った。
「相変わらず強引ですね」
「だから昔、宵宮朔にも離れられたんじゃないですか」
蓮は話が見えなかった。
どうやらこの二匹の妖怪は知り合いらしい。そして自分は、清司によって飛鳥に関する記憶を消されている。
つまり清司はわざとやった。
目的は、蓮と飛鳥の接点を消すためだ。
本当に抜け目がない。
「なぜ消してはいけない?」
清司の声は冷たい。
「あいつは俺の伴侶だ」
「大鵬。現世に長くいるなら、人間も第三者を嫌うことくらい知っているだろう」
飛鳥は笑った。
彼は清司の背後にいる蓮を見る。
「では、証拠は?」
清司は蓮の手を握った。
「俺たちは結婚する」
「人間の結婚証明も取るし、妖界に認められる契書も結ぶ」
蓮はただ、困り果てた顔をした。
結婚と言われても、まだ心の準備などできていない。
これは遊びではない。
一度結婚すれば、二人の一生に関わることだ。
彼には、まだ考える時間が必要だった。




