消された痛み
客間は恐ろしいほど静かだった。
蓮はソファに座り、ぼんやり天井を見ている。飛鳥はそばに立ち尽くし、どうすればいいか分からなかった。
自分が衝動的すぎたことは分かっている。蓮は受け入れていない。それなのに、あんなことをした。
「蓮」
飛鳥はもう一度、低く謝った。
「本当にすみません」
「僕は、あなたが好きすぎたんです」
蓮の口元に、苦い笑みが浮かぶ。
「好きなら」
彼は言った。
「俺たち、付き合ってもいいですよ」
その声はあまりに軽かった。まるで自分自身を嘲っているようだった。
もう状況はここまで壊れている。投げやりになってもいい。どうせ、守りたいものなどほとんど残っていない。
飛鳥は目を見開いた。
「蓮、本気ですか?」
信じられないという顔だった。
蓮は頷いた。
人はどん底に落ちた時、別の何かで自分を前へ進ませようとする。彼は飛鳥を利用して清司を忘れようとしていた。自分を立て直すためにも、仕事へ戻るためにも。
「ただし」
蓮は彼を見た。声は残酷なほど冷静だった。
「俺の許可なく部屋へ入らないこと」
「それと、俺に触れないこと」
飛鳥はすぐ頷いた。
「できます」
「全部守ります」
少しずつそばにいればいい。いつか、蓮は自分の真心に気づいてくれる。飛鳥はそう信じた。
「ならいいです」
蓮は横を向いた。
「今日は帰ってください」
「あとで連絡します」
飛鳥は台所を片づけてから出ていった。
広すぎる部屋に、蓮だけが残された。
彼はシャツのボタンを外し、自分の肌を見た。昨日まで残っていた傷は、もうほとんど消えている。
清司は戻ってきた。
それだけは確かだ。
戻ってきたのに姿を見せないなら、もう探さない。
自分は忘れることを選ぶ。
そもそも、人と妖は違う道にいる。
同じ世界のものではない。
無理にねじ曲げた感情が、甘い実になるはずがなかった。
「どうして愛してもいない相手を選ぶ?」
聞き慣れた声が背後でした。
蓮の心臓が跳ねる。
振り返ると、白銀清司がそこに立っていた。
その目は、恐ろしいほど暗い。
蓮は瞬時に悟った。だが駆け寄ることはしなかった。
ただ背を向け、冷たく言う。
「行ったんじゃなかったのか」
「どうして戻ってきた」
「戻って何をするつもりだ」
「何の意味がある?」
清司は胸を押さえた。そこが砕けるように痛む。
「蓮」
彼は背後から蓮を抱きしめた。
「俺から離れないでくれ」
この数日、清司は遠くからずっと蓮を見ていた。蓮の苦しみも、眠れない夜も、無理に食べて吐き気をこらえる姿も、すべて見ていた。
蓮がつらいことは知っていた。
それでも、あの見知らぬ男のもとへ行かれるのは、どうしても耐えられなかった。
蓮の口元に、苦笑が滲む。
この数日、彼は思慕に押し潰されそうだった。
その間、清司はどこにいたのか。
彼は清司が好きだった。愛していると言ってもいい。けれど相手はどうだったのか。何か起これば消え、自分ひとりを置いていく。
蓮だって怖い。
孤独に飲み込まれる。
彼はただ普通でいたかった。もう待ちたくない。もう考えたくない。
習慣ほど恐ろしいものはない。
人を崩壊させるからだ。
彼はもう降参するつもりだった。妥協するつもりだった。
なのに、清司はどうして今さら現れるのか。
蓮は力を込めて彼を押しのけた。
「清司」
声をできるだけ平静にする。
「俺たちは終わりだ」
清司の身体が震えた。
終わり。
その言葉は刃のように胸へ突き刺さる。
自分の問題を片づけてから戻るつもりだった。それだけだったのに、どうしてすべてがずれてしまったのか。
「嫌だ」
清司は蓮の肩をつかんだ。
「蓮、俺を愛しているだろう?」
「そうだと言ってくれ」
蓮の目が赤くなる。
「もうやめて!」
「俺の心は、君が来たい時に来て、去りたい時に去る場所なのか?」
「君はもう二度、俺を置いていった!」
清司は彼をきつく抱きしめた。蓮は激しくもがく。
この腕から逃げたい。飲み込まれたくない。もう落ちたくない。
清司は蓮の髪を撫でた。
こんな蓮を見るのが怖かった。
失うのが怖かった。
「ごめん」
清司の声が震える。
「全部俺が悪い」
「お前を置いていくべきじゃなかった」
「全部話すべきだった」
「離せ!」
蓮は叫んだ。
「清司、俺たちは完全に終わった!」
清司は何度も謝った。
蓮は自分がどれほど罵り、どれほど抵抗したのか分からない。やがて疲れ果て、清司の腕の中で眠り込んでしまった。
清司はようやく息を吐いた。
彼は蓮の唇にそっと口づけ、ベッドへ運ぶ。それから、蓮の額に手を置いた。
金白色の妖力がゆっくり流れ込む。
清司は、蓮がこの数日で一番苦しんだ記憶を消した。
不公平だと分かっている。
それでも、蓮を失うことだけはできなかった。
そして、あの鷹宮飛鳥。
あの男には妖気がある。どう見ても普通の人間ではない。
警戒が必要だった。
一方、朔と律はベッドの中にいた。
清司からの電話を受けた時、朔の表情はすぐに沈んだ。事態は二人が思っていたより厄介になっている。
「そんなに深刻なのか?」
律が朔を見る。
朔は頷いた。
「少し面倒なことになっている」
「でも大丈夫」
「律、僕が君を守る」
律は朔の額に口づけ、さらに強く抱いた。
「危ないことはしてほしくない」
朔の頬が薄く赤くなる。
「でも、清司ひとりに任せるわけにはいかない」
「あいつも危ない」
その言葉は、律のキスに塞がれた。
朔はもう続きを言えなかった。
翌朝、蓮が目を覚ますと、清司がベッドのそばに座り、真剣に彼の目を見ていた。
蓮は不思議そうにする。
「どうした?」
清司はわずかに口元を上げた。
「何でもない」
「うちの蓮は、本当に綺麗だと思っただけだ」
蓮の顔が少し赤くなる。
この臭い妖狐はどうしてこうも甘ったるいことを平気で言うのか。毎日人の隙をつくことばかりで、ほかには何もできないのではないか。
その時、蓮は清司の髪に気づいた。
「その髪、どうしたんだ?」
狐疑的に見る。
ただ、白髪の清司も悔しいほど似合っていた。
清司は自分の白髪に触れた。
彼にも理由は分からない。戻す方法が分かるなら、とっくに戻している。
蓮を驚かせたくなくて、ずっと隠れていた。けれどその隠れた時間が、蓮をここまで苦しめるとは思わなかった。




