近すぎる優しさ
飛鳥は頑なな蓮を見つめた。
その目には悲しみがあり、どこか自分を傷つけるような意地もあった。彼はふいに、この人を抱きしめたいと思ってしまう。
何があれば、蓮はここまで追い詰められるのか。
「すみません」
飛鳥はすぐ、自分が踏み込みすぎたことに気づいた。
「僕が悪かったです」
「今のことは、聞くべきではありませんでした」
長い沈黙のあと、蓮も少しずつ落ち着いた。
さきほど自分の反応が過剰だったことは分かっている。
「さっきは俺も取り乱しました」
「すみません」
飛鳥は水を差し出した。
「大丈夫です」
「ただ、話せることなら話した方がいいこともあります」
「言葉にすると、少し楽になるかもしれません」
蓮はコップを握った。
「たいしたことじゃありません」
「それでも、明日には退院します」
「病院にいる方が、余計に考えてしまう」
飛鳥はその目を見て、最終的には頷くしかなかった。
蓮がどうしても退院するというなら、せめて傷の処置に必要なものを多めに準備するしかない。傷は毎日替えなければならない。入院しないなら、別の方法を考える必要があった。
こうして、二人は少しだけ接点を持った。
翌日、蓮は退院して公寓へ戻った。
玄関を入った直後、最初の電話が鳴る。
『浮遊面』の役は降板になった。
劇組からの説明は曖昧だった。今後は別の調整があるので、まずはゆっくり休んでほしいというだけだった。
蓮は携帯を握ったまま長いこと立っていた。
結局、何も問い返さず電話を切った。
そのままソファに倒れ込み、ぼんやりと眠りに落ちる。
彼は知らなかった。眠ったあと、清司が客間に現れたことを。
清司の髪は雪のように白くなっていた。背後の九尾も白い。顔色はひどく憔悴している。
今回の相手がここまで厄介だとは、清司にも予想外だった。黒蜘蛛の呪印は骨に食い込む毒のように彼を絡め取り、彼は誰も巻き込みたくなかった。朔にすら知らせていない。
彼はソファの前に立ち、眠る蓮を見下ろした。
蓮の顔色は悪く、転倒で負った疲労もまだ身体に残っている。
清司は手を伸ばし、その頬をそっと撫でた。
白い妖力が掌から流れ、少しずつ蓮の身体へ入っていく。傷口は塞がり、痣は薄くなり、きつく寄っていた眉もゆっくりほどけていった。
代わりに、清司は黒い血を吐いた。
胸を押さえ、指先が白くなるほど力を込める。服の下で黒蜘蛛の印が熱を持って疼いていた。
彼は唇の血を拭い、最後にもう一度蓮を見てから姿を消した。
翌朝、蓮が目を覚ますと、身体は驚くほど軽くなっていた。
肩を動かし、痛かった場所に触れる。ほとんど痛みがない。
床に、白い細い毛が一本落ちていた。
蓮が拾おうと指を伸ばす前に、それは雪のように空気へ溶けて消えた。
彼は固まった。
胸が急に速く鳴り始める。
台所へ行くと、テーブルには食事が用意されていた。全部、彼の好きなものばかりだった。
蓮は目を見開き、すぐに家中を探す。客間、台所、寝室、浴室。
誰もいない。
清司が戻ってきた痕跡はない。
それでも、食事と、突然癒えた傷が告げている。清司は密かに戻ってきたのだ。
戻ってきたのなら、なぜ会わないのか。
何かあったのなら、なぜ一緒に向き合わないのか。
なぜ、隠れるのか。
蓮は台所で立ち尽くし、ゆっくり自分の身体を抱きしめた。
苦しさが潮のように胸へ満ちていく。
こんな優しさはいらない。
勝手に置き去りにして、こっそり世話をして、また姿を消す。そんな埋め合わせはいらなかった。
その時、呼び鈴が鳴った。
蓮はほとんど反射的に駆け出した。
扉を開けた瞬間、目の光がまた少し消える。
外にいたのは清司ではない。
鷹宮飛鳥だった。
飛鳥はたくさんの食べ物を提げ、柔らかく笑った。
「何も食べていないかと思って」
「少し買ってきました」
蓮は眉を寄せる。
「どうしてここを知ってるんですか?」
飛鳥は少し気まずそうに言った。
「あなたのマネージャーさんに聞きました」
蓮は深く追及しなかった。横へ身を引く。
飛鳥は遠慮なく中へ入り、食材を持って台所へ向かった。
「蓮、何が好きですか?」
「次は僕が作ります」
蓮は適当な場所に座った。
好きなもの。
自分は、清司の作る料理が特別好きだったのかもしれない。
とても好きだった。
「次に来るなら、買わなくていいです」
蓮は無理に笑った。
飛鳥の顔に、少し気まずさが走る。
そこへ伊織もやって来た。入るなり慌てた顔で自分で水を注ぎ、一気に飲んでから口を開く。
「蓮、どうして争わないんですか?」
「あの役をあれだけ演ってきたのに、急に降ろすなんて、完全に足元を見られてますよ」
飛鳥は事情が分からず首を傾げた。
「降ろす?」
「蓮の役が替えられたんですか?」
伊織はそこで初めて、部屋に見知らぬ男がいることに気づいた。上下を見てから、蓮を見る。
蓮は説明した。
「友達です。鷹宮飛鳥」
「鷹宮先生でいい」
伊織は考え込むように頷いた。最近、蓮の周りに現れる友人が多すぎて、もう把握しきれない。
「蓮は今、かなり不利です」
伊織は歯を食いしばった。
「あれだけ時間をかけた役を、急に替えるなんてひどすぎる」
「遠藤監督が金持ちに媚びる人だとは思っていませんでした」
「結局、誰も同じなんですね」
「蓮、安心してください。俺が別の仕事を探します」
蓮は最初から最後まで、ほとんど何も言わなかった。
飛鳥は、彼の心が相当痛んでいると察し、そっと手を握った。
「大丈夫です」
「きっと良くなります」
蓮はため息をつき、遠くへ視線をやった。
清司は本当に、自分のすべてを持っていった。
すばらしいことだ。
皮肉なほどに。
伊織は長く迷ったあと、声を落とした。
「蓮、あの白銀社長、失踪しているみたいです」
「だから監督側も……」
その先は言わなかった。
今の蓮に、白銀清司が何者なのかを聞くのは危険すぎる。
蓮は横を向いた。
「俺と彼は、それほど親しくありません」
「ただの利害関係です」
「余計なことは考えないで」
伊織も飛鳥も、彼が強がっていることくらい分かっていた。
飛鳥は台所でたくさん料理を作った。だが蓮は一口食べただけで、胃の奥がひっくり返るような感覚を覚えた。
彼は箸を置き、苦く笑った。
自分は本当に、あの妖怪の料理に慣らされてしまったのだろうか。
こんなに自暴自棄になって、父が泉下で知ったら喜ぶはずもない。
「蓮」
飛鳥はとうとう耐えられなくなった。
「今のあなたは、とても危ういです」
「お願いです。何があったのか話してください」
蓮は反応しなかった。
飛鳥は衝動的に、蓮の顔を両手で支えて身を屈めた。
唇が重なる。
蓮は目を見開いた。
その瞬間、頭の中には一つのことしかなかった。
清司以外に触れられたくない。
彼は飛鳥を強く押しのけた。飛鳥は傷つけないようにすぐ手を離す。
次の瞬間、乾いた音が客間に響いた。
蓮の平手が飛鳥の頬を打っていた。
「何をしてるんですか」
怒りで声が震えている。
「俺は男です」
飛鳥は唇を噛んだ。
「ごめんなさい」
「蓮、僕はただ、あなたが好きなんです」
「これ以上、あなたが壊れていくのを見たくなかった」




