消えた白狐
翌朝、蓮は眠りから覚めた。
隣が空だった。
彼は反射的に目を開き、ほとんど跳ね起きた。
「清司?」
返事はない。
部屋はあまりにも静かだった。
蓮は裸足のままベッドを降り、家中を探した。寝室、浴室、客間、台所。どこにもいない。
清司はどこへ行ったのか。
どこへ消えたのか。
昨夜は、これから毎日料理を作ると言った。もう離れないとも言った。
蓮は震える手で携帯を取り、まず早乙女律に電話し、次に宵宮朔へ電話した。けれど二人とも、清司の行方を知らなかった。
通話を切ったあと、蓮はひとりでベッドの端に座り、ぼんやり天井を見上げた。
また、自分を捨てたのだろうか。
まだどれだけも経っていない。
昨日は離れないと言ったのに、こんなに早く反故にするのか。
蓮は無理やり撮影現場へ向かった。けれど状態は最悪だった。歩く時も足元を見ていない。撮影の合間、簡単な段差でさえ踏み外し、そのまま転げ落ちた。
病院へ運ばれた時、蓮の目は空っぽで、何も映していないようだった。
伊織は病床のそばに立ち、そんな蓮を見て胸が痛くなった。
「蓮」
彼は静かに尋ねた。
「何があったんですか?」
「俺に話してくれませんか?」
蓮の口元に、苦い笑みが浮かぶ。
「あいつ、やっぱり行ったんだ」
最初から分かっていたはずだった。ただ、あまりに突然すぎた。失望も混ざっている。
やはり、自分が自分勝手だったのだ。
ほどなく、律と朔も駆けつけた。病床で青ざめた蓮を見て、二人は目を合わせた。どう切り出せばいいのか分からない。
「どうして二人が?」
蓮は少し驚いた。
朔はため息をつく。
「どう伝えればいいか分からない」
「でも、清司を信じてあげて」
「あいつは君を捨てたりしない」
蓮は目を閉じた。
もう、その言葉を信じたくなかった。
清司は二度目の離別を選んだ。前回はまだ説明があった。今回は、挨拶すらなかった。
「かばわなくていい」
蓮は背を向け、布団の中へ身を縮めた。
「分かってるから」
律には、その感覚が分かった。朔が初めて隠り世へ戻った時、彼も世界に置き去りにされたような空洞を味わった。あの孤独は、言葉で慰められるものではない。
「朔」
律は思わず小声で聞いた。
「本当に清司がどこへ行ったか知らないのか?」
朔は首を振った。
「知っていたら、必ず教える」
二人はそれ以上、蓮を問い詰めなかった。去る前に、看護師へ蓮の様子を気にしてほしいとだけ伝えた。
病室が静かになると、蓮はようやく布団から顔を出した。唇を強く噛む。
しっかりしなければならない。
この短い間、清司と一緒にいた時間は本当に楽しかった。楽しかったからこそ、ずっと続くような気になってしまった。
それが身勝手だったのかもしれない。
伊織が燕の巣のスープを持ってきた。ベッドのそばに腰を下ろし、蓮の手を軽く押す。
「蓮、少しだけでも食べてください」
「さっき炊いてもらいました」
蓮は無理に一口食べた。
次の瞬間、昨夜の清司の料理が脳裏に浮かぶ。あの人は、毎日作ると言った。
蓮は碗を押し戻し、苦く笑った。
「いらない」
「本当に」
「しばらくすれば平気になる」
その声は、まるで失恋した人のものだった。
伊織の心配は深まる。蓮には恋人もおらず、普段から親密な相手もほとんどいない。どうして突然、捨てられた人のように崩れているのか。
「蓮」
「教えてください」
蓮は首を振り、スープを横へ押した。
「下げて」
「でも、このままだと身体が……」
「下げて」
蓮はまた布団に潜り、顔を枕へ埋めた。
伊織はため息をつき、碗を持って部屋を出るしかなかった。
蓮はいつ眠ったのか分からなかった。目が覚めたのは、病室の外から聞こえる話し声のせいだった。
数人の医師が、隣の患者について話し合っている。中心にいたのは若い医師で、端正な顔立ちをしていた。肌は白く、目元は柔らかい。
彼は蓮が起きたことに気づくと、少し申し訳なさそうに目を向けた。
しばらくして、医師たちの話し合いは終わった。蓮がもう一度目を閉じようとした時、若い医師の声が耳に入る。
「こんにちは」
「鷹宮飛鳥です」
彼は軽く頭を下げ、穏やかに言った。
「先ほどは休んでいるところを騒がしくしてしまって、すみません」
蓮は半分目を開けたまま、首を横に振った。
「大丈夫です」
「気にせず続けてください」
飛鳥は蓮を見つめた。
「あなたの番組を見たことがあります」
「佐伯蓮さんですよね」
少しだけ声を落とす。
「実は、僕はあなたのファンです」
「番組も好きですし、それに……」
その先は言わなかった。
蓮の口元に、また苦い笑みが浮かぶ。
「そうですか」
入院先でまでファンに会うとは思わなかった。
飛鳥は、ずっと前から蓮を知っていた。やはり病院で、ただしその時の蓮は気づいていなかった。
「はい」
飛鳥は蓮の顔色を見た。
「とてもつらそうに見えます」
「何があったのか、話してもらえませんか?」
蓮は首を振った。
何を話せるというのか。
妖怪を好きになったこと。その妖怪と契約したこと。そしてまた置き去りにされたこと。
口に出せば、あまりにも荒唐無稽な冗談にしか聞こえない。
「どうにもならない」
蓮は淡く言った。
「誰にも助けられません」
飛鳥は少し焦った。
「そんなことはないかもしれません」
「話せば、少し楽になることもあります」
蓮は横目で彼を見た。
「鷹宮先生、ほかの患者を診なくていいんですか?」
「ずっと俺の病室にいて、大丈夫なんですか?」
飛鳥の目に、少し落胆が走った。だがすぐに柔らかな顔へ戻る。
「もう勤務は終わっています」
「ただ、あなたの様子が気になっただけです」
彼は名刺を取り出し、ベッド脇に置いた。
「怪我は軽くありません。しばらく療養が必要です。何かあれば、僕に連絡してください」
蓮は名刺を一瞥し、横へ置いた。
「明日退院します」
飛鳥は目を見開いた。
「何ですって?」
「その怪我で家に戻るつもりですか?」
「どれだけ危ないか分かっているんですか?」
蓮は目を閉じる。
「俺のことです」
飛鳥は思わず手を伸ばし、蓮の肩をつかんで正面を向かせた。
蓮はその強制される感覚を嫌い、すぐに抵抗した。けれど飛鳥は一瞬、手を離せなかった。
「自分ひとりだけだと思っているんですか?」
「あなたを待っているファンがたくさんいます」
「全員にあなたを諦めさせるつもりですか?」
「佐伯蓮、あなたはどうしてしまったんですか?」
「何かあるなら言ってください。一人で抱え続ける必要はありません」
蓮は強く彼を押しのけた。
「あなたは何様ですか?」
「俺の考えまで動かせると思ってるんですか?」




