奪われた身体
蓮の手は固く握られていた。
清司と知り合ってから、彼が誰かに傷を負わされるところなど見たことがない。普段の清司がどれほど不遜で面倒な妖狐でも、妖力に関してはほとんど絶対的だった。その強さが、蓮に安心を与えていた。
けれど今、血が彼の口元にある。
清司は唇を拭い、不遜な笑みを浮かべた。“黒沢明彦”はその隙を与えず、再び襲いかかる。今度の攻撃は、明らかに致命傷を狙っていた。
蓮の心臓が喉元まで跳ね上がる。次に何が起きるのか、見ることさえ怖かった。
朔が横から割り込み、その手を止めた。
だが次の瞬間、“黒沢明彦”が腕を振り払う。朔の身体は妖力に弾かれ、床へ叩きつけられた。黒い血が唇からこぼれる。
「朔!」
律は結界から飛び出そうとした。だが見えない壁が彼を止める。
朔は床に手をつき、乱れる息の中で律へ手を上げた。動くな、と。
その時、廊下の向こうにもう一つの影が現れた。
水瀬琴音だった。
その目は緑に光っている。彼女もまた、何かに憑かれていた。
“水瀬琴音”は首を傾け、清司を見て、艶めいているのにひどく気味の悪い笑い声を漏らした。
「どうしたの?」
「まだ続けるつもり?」
「前は私をあの人間の身体から叩き出したわよね」
「今度は同じことを返されて、そんなに気分が悪い?」
清司はすぐに分かった。
前に伊織へ憑いていた、あの執念深い蜥蜴妖だ。
「そんなに復讐が好きか」
清司は冷笑した。
「しょせん、その程度の器だ」
彼はさらに強い妖力を練り上げ、全力で“黒沢明彦”へ向かった。今度は相手も完全には避けきれない。
黒い影が黒沢明彦の身体から弾き出され、床に落ちた。
現れたのは、長年修行した蟇妖だった。醜い体の背中には毒疣が盛り上がり、妖気は低級妖怪よりずっと濃い。
清司は目を細めた。
「言え」
「お前たちはどうやって現世へ来た?」
「隠り世で何が起きている?」
蟇妖は不遜に顔を上げた。
「はっ」
「清司と宵宮朔が隠り世の秩序を乱しておいて、よくそんなことが聞けるな」
「卑怯だと思わないのか?」
蜥蜴妖も琴音の身体を借りて、清司を睨みつけた。
「自分たちは勝手に現世へ長く居座っているくせに、私たちには口を出すの?」
朔は口元の血を拭い、声を冷たくした。
「僕たちは人間と共生契約を結んでいる」
「君たちは?」
「勝手に逃げ出してきただけだろう」
その一言は、二匹の言い訳を容赦なく裂いた。
清司と朔が現世にいるのは、契約があるからだ。代償も、縛りもある。だが逃げてきた妖怪たちは、自分の欲のために現世へ入り込んでいる。
同じであるはずがなかった。
蜥蜴妖は鼻で笑う。
「契約が何だっていうの?」
「結局、人間と恋愛してるじゃない」
清司が遮った。
「話を逸らすな」
「目的は何だ?」
蟇妖は蜥蜴妖より頭が回るようだった。逃げられないと分かると、悪意に満ちた笑みを浮かべる。
「お前たちが離れてから、隠り世は乱れた」
「俺たちだけじゃない」
「大勢の妖怪が現世へ出ている」
清司の顔色が一変した。
彼は蟇妖の喉をつかむ。
「何だと?」
蟇妖はさらに悪意深く笑った。
「全部、お前たちが生んだ業だ」
「清司……」
朔の声が低く沈んだ。
そこまで事態が進んでいるとは、彼も思っていなかった。もし隠り世が本当に乱れているのなら、彼らはあの人から託されたものを裏切ったことになるのではないか。
清司は蟇妖を乱暴に投げ捨てた。
次に琴音へ視線を向ける。蜥蜴妖はよく分かっていたらしく、すぐに彼女の身体から抜け出した。
「安心しなさい。彼女は無事よ」
蜥蜴妖は清司を恐れていた。自分程度の妖怪が本気で怒らせれば、ひとたまりもないと知っている。
蜥蜴妖は霧のように消えた。
清司が手を振ると、妖力で歪んだ周囲が一瞬で元に戻った。結界が解け、凍りついていた現世の時間が再び動き始める。
蓮は真っ先に清司へ駆け寄った。真剣に身体を確かめる。
「大丈夫?」
「病院に行かなくていいのか?」
清司は首を振り、安心させるように笑った。
「大丈夫だ」
その向こうで、朔がまた血を吐いた。久しぶりに大量の妖力を使ったせいで、身体が耐えきれなかったのだ。
「僕が足を引っ張ったね」
朔は清司を見て、申し訳なさそうに言った。
清司は彼の胸に掌を当て、自分の妖力を少し渡す。朔の顔色はようやく落ち着いた。
「ありがとう」
「気にするな」
律は朔を強く抱きしめた。さっきの一瞬、本気で失うと思った。朔はその背を軽く叩く。
「大丈夫。僕は平気だよ」
蓮は視線を落とした。
蟇妖の言葉を聞いてしまった。清司と朔が離れたことで隠り世が乱れ、これからさらに多くの妖怪が現世へ入り込み、人間に憑くかもしれない。
それはつまり、すべて彼らが原因なのだろうか。
清司は彼の考えを読んだように、蓮の髪を撫でた。
「心配するな」
「俺はお前から離れない」
蓮は顔を上げる。
胸が引き裂かれるほど離したくない。それでも、低い声で言った。
「清司、俺たちはそんなに自分勝手ではいられない」
「もし本当にこれが君たちのせいで起きているなら、隠り世へ戻ってほしい」
「今日みたいなことが、もう起きてほしくない」
清司は蓮を抱き寄せた。多くは説明しなかった。
隠り世の根はずっと以前から揺らいでいた。彼と朔が離れなくても、いずれこうなっていたかもしれない。だが今それを言えば、蓮はもっと不安になるだけだ。
「お前がそばにいるなら」
清司は低く言った。
「俺は何も怖くない」
蓮は床に倒れている黒沢明彦と水瀬琴音を見た。
「あの二人は大丈夫なのか?」
「問題ない」
清司は言った。
「しばらくすれば目を覚ます。先に離れるぞ」
蓮はまだ心配だったが、清司の確信に押され、結局一緒に商業施設を出た。
四人とも、別々の思いを抱えていた。
この件は簡単に終わらない。
清司がここまで黙り込んでいるのだから、なおさらだった。
帰り道、蓮はずっと清司の横顔を見ていた。自分がいつからこの人を好きになったのか、もう思い出せない。
清司が視線に気づき、振り向いて笑う。
「何を見ている?」
蓮も少し笑った。
「君を見てる」
「何を考えてるのか、分からないから」
家に戻ると、清司は蓮の服を着替えさせ、それから台所で夕食を作った。
テーブルに並んだ料理を見て、蓮は信じられない気持ちになった。本当に清司が作ったのか。箸で一口取り、ゆっくり味わう。
美味しい。
それも、下手な店よりずっと美味しい。
「本当に君が作ったの?」
清司は頷いた。
もちろん彼が作った。どの料理にも手間をかけている。どの皿にも、蓮への好意を隠している。
「気に入ったなら」
清司は笑って言った。
「これから毎日作ってやる」
蓮は少し怔え、それから頷いた。
この妖狐を、彼はどうやら少し見くびっていたらしい。
その時、清司の胸に激痛が走った。
蓮に見られたくなくて、彼は横を向き、唇を噛んだ。襟元を開くと、胸に黒い蜘蛛のような印が浮かんでいる。
その印は生き物のように肌へ張りつき、冷たく、異様だった。
いつ現れたのか、彼にも分からなかった。




