独占欲の狐
車内は静かだった。
蓮は後部座席に座ったまま、まだ撮影状態から完全に戻っていなかった。清司はそんな蓮を、息苦しいほど強く抱き寄せている。
「清司」
蓮は眉を寄せた。
「今度は何がおかしいんだ?」
最近のこの妖狐は、どこか変だった。以前の清司は傲慢で、別れ際まで口が悪く、素直ではなかったが、ここまで一つ一つに口出しすることはなかった。今の彼は、蓮の周りの人間を全員片づけたがっているように見える。普通の仕事上の会話でさえ、不機嫌になる。
清司は蓮の肩に顎を置き、拗ねたような声で言った。
「嫉妬している」
蓮は一瞬固まった。
嫉妬。
白銀清司の口からその言葉が出ること自体、どこか信じがたかった。
「最近、少し調子に乗ってないか?」
蓮は横目で見る。
「俺が誰かと話すだけでも駄目なのか?」
「話すのはいい」
清司の返事は早かった。
ただし、その目にははっきりと「気に入らない」と書いてある。
蓮には、人の心に潜む欲までは見えない。けれど清司には見えてしまう。森崎悠真も、黒沢明彦も、ひとり残らず邪魔だった。
考えれば考えるほど腹が立ち、清司は蓮の言葉を塞ぐように口づけた。
蓮はそのキスで少しぼうっとしてしまった。清司がようやく離した頃には、自分が何を言い返そうとしていたのか、すっかり忘れていた。
清司は蓮の目を覗き込み、まるで所有権を宣言するように言う。
「これからは、俺の言うことだけ聞け」
「ほかの奴を見るな」
「ほかの奴に優しくするな」
蓮は呆れて笑った。
「白銀清司、俺に仕事があるのを忘れてないか?」
「仕事でも駄目だ」
清司は理不尽なほど堂々としていた。
蓮はもう相手にしないことにした。
二人はもともと、普通のペア服を少し見に行くだけのつもりだった。蓮は最初、あまり気が進まなかった。彼は公人であり、私生活の小さな一片さえ撮られれば大きく拡散される。それでも清司の失望したような、それでいて期待に満ちた顔があまりに分かりやすく、蓮は最後に折れた。
だが商業施設に入ってしばらくもしないうちに、二人は宵宮朔と早乙女律に出くわした。
律は片腕で朔の腰を抱いている。朔はほとんど彼の胸にもたれ、顔にまだ薄い赤みを残していた。
「どうしてここに?」
朔が驚いたように言った。
蓮は反射的に清司を見た。
「ただ、適当に見てただけ」
ただ見ていただけ。
朔の視線は横へ流れた。そこは、男性向けペアブランドが一面に並ぶフロアだった。考えすぎるなと言われても無理がある。
律は意味ありげに笑った。
「ペア服なら、いい店を知ってる」
蓮は嫌な予感がした。
そして、その予感は見事に当たった。
律が連れていったのは、最上階にある非常にプライベートな店だった。店内を行き交う客の多くは男性同士のカップルで、ショーウィンドウには大胆なデザインの衣装が並んでいる。灯りは柔らかく艶めき、空気には甘い香りが漂っていた。
蓮は入口で固まった。
これは普通のペア服ではない。
清司だけは、新しい世界を見つけたように目を輝かせた。彼は布地の少ない衣装を一着取ると、蓮の前に当ててみる。
「これ、いいな」
蓮の顔が一瞬で赤くなった。
朔と律も同時に彼を見た。
蓮は耐えきれず、清司の手を叩いた。
「何かしたいなら家でやれ」
「外で恥をかかせるな」
清司は少しも恥じていなかった。さらに別の一着を取り、また蓮に合わせる。
「蓮、これも似合う」
蓮は本気で今すぐ帰りたくなった。
「もういい」
声を低くする。
「ここは外だ。撮られたらどうなるか分かってるのか?」
清司の動きが止まった。
彼はそこでようやく思い出す。蓮は公人だ。普通の恋人同士のように手をつないで店を歩き、ペアの衣装を買い、誰に知られても構わない顔をすることはできない。
清司は手にした衣装を一枚ずつ戻した。
「なら、買わない」
声には分かりやすい落胆が混ざっていた。
蓮はその顔を見て、胸が少し痛んだ。認めたくないわけではない。ただ、今はまだできないのだ。
律は軽く言った。
「ペア服くらい、好きなら着ればいいだろ」
「これは普通のペア服か?」
蓮は睨んだ。
律は鼻先をかいた。朔もこういうものを着たことがないわけではない。どうして蓮の時だけ大問題になるのか、少し分からない。
清司は可哀想なほどまっすぐ蓮を見ていた。まるで主人の許可を待つ狐だ。
蓮は数秒黙り、結局折れた。
「好きなら買えばいい」
「ただし、誰も着ない」
清司は許可を得た途端、さっき見ていたものをすべて会計へ持っていった。
蓮はその手にどんどん増えていく袋を見ながら、買い物で理性をなくすのは女だけではないのだと思った。妖怪も同じらしい。
四人が店を出て下の階へ向かおうとした時、廊下の先にひとりの影が現れた。
黒沢明彦が道を塞いでいた。
蓮は一瞬足を止めた。
「黒沢?」
明彦はゆっくり顔を上げる。瞳はすでに赤く染まっていた。
蓮の背筋に冷たいものが走る。
人間の目ではなかった。
「清司」
蓮は反射的に清司へ寄る。
「彼、様子がおかしい」
清司は蓮を背後にかばい、冷たい目で相手を見据えた。
「喋るな」
「あれは黒沢明彦じゃない」
朔も気づいていた。あの身体の中には、妖気が満ちている。
彼は小さく律へ言った。
「律、しっかり抱いていて」
「分かった」
律はすぐ朔を守るように抱き寄せた。彼が信じるのは朔であり、失いたくないのも朔だった。
“黒沢明彦”は首を鳴らし、異様な笑みを浮かべた。
「お前ら二人、いい度胸だな」
「人間相手に恋愛ごっこか」
清司の指先が軽くこすれ、青白い狐火が掌に灯る。
「俺たちの問題だ」
「現世の秩序を乱すつもりなら、俺が片づけることになるぞ」
“黒沢明彦”は長い舌を吐き、白目をむいた。普通の人間なら、その姿だけで悲鳴を上げるだろう。
けれど清司と朔にとって、それは妖怪が少し本性を見せただけだった。
「秩序?」
陰湿な笑いが響く。
「清司、宵宮朔。お前たちも同じだろう?」
蓮は眉をひそめた。
最近、いったい何が起きているのか。これまでも妖怪を見たことはあったが、これほど次々に現世へ入り込むことはなかった。前に伊織へ憑いた蜥蜴妖の時も、清司がいなければどうにもならなかった。
朔は清司を見て、次に律を見る。
このものを、律に傷つけさせるわけにはいかない。
絶対に。
「清司」
朔は指先を舐め、瞳を赤く染めていく。
「久しぶりに、並んで戦うね」
清司は九尾を開いた。朔も牙を覗かせる。
二つの妖力が床に交差し、素早く結界を描き上げる。蓮と律は、その中へ守られた。
清司は手首を鳴らす。
「お前が先か、俺が先か?」
朔が笑う。
「先にどうぞ」
「当然だ」
清司の掌で妖力が膨れ上がり、姿が見えないほどの速さで走った。
しかし“黒沢明彦”は、攻撃の方向を見切っていたように軽々と避ける。
次の瞬間、相手の足先が床を蹴り、逆に清司へ襲いかかった。
清司は避けきれなかった。身体が壁に叩きつけられ、口元から血が滲む。
蓮の瞳が見開かれた。
「清司!」
清司は唇の血を拭い、目を冷たく細めた。
「年寄りめ」
「まだ少しは動けるようだな」




