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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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冷たい拒絶

仮設メイク室の空気は、凍りついたように動かなかった。


 水瀬琴音は床に膝をついたまま、白銀清司のスラックスをつかもうとしていた指を宙に残していた。さっき彼女がその裾にすがった場面は、この場にいる全員が見ている。最後の命綱をつかんだつもりだったのに、次の瞬間、清司は汚れたものを見るような目で彼女を見下ろした。


 清司は彼女の前に立ったまま、すぐには手を出さなかった。ただ身をかがめ、長い指で彼女の顎をつかむ。琴音は痛みで顔色を失ったが、抵抗することさえできなかった。


 その手は細く美しいのに、力は鉄のように冷たかった。彼女はそこで初めて思い知る。目の前の男は、これまで自分が会ってきた投資家やプロデューサーや社長とは違う。少し弱った顔を見せれば心を動かされる種類の人間ではなかった。


 彼の目には、同情などひとかけらもない。


 あるのは、嫌悪だけだった。


「水瀬」


 清司の声は低かった。


「少し見た目がいいからといって、それだけで誰でも誘惑できると思っているのか?」


 琴音の息が止まった。こんなふうに扱われたことなど、彼女には一度もなかった。


 昔の三浦伊織は、どれほど怒っても彼女の面子だけは守った。会社の人間も、伊織と蓮の顔を立てて、彼女に露骨な言葉を投げつけることはなかった。甘やかされてきた時間が長すぎて、彼女は忘れていたのだ。世の中の誰もが、自分に合わせてくれるわけではないと。


 それでも、琴音は諦めきれなかった。


 どうして自分ではいけないのか。


 どうして佐伯蓮のそばには、いつもこんな人間が現れるのか。


 白銀清司は美しく、気配も桁違いで、背後には現場の全員を黙らせるだけの資金と立場がある。この男が一度でも手を差し伸べてくれるなら、彼女はもう伊織の顔色をうかがわなくて済む。もう下手に出なくていい。もう現場で哀れなふりを続ける必要もない。


 琴音は顔を上げた。涙が、計算したように頬を伝う。


「白銀社長、私は本当にあなたが好きなんです」


 声は柔らかく、切実に震えていた。


「ただ、あなたのそばにいたいだけなんです」


 そばにいた森田萌奈は、完全に言葉を失っていた。


 つい先ほどまで、彼女は琴音をかばっていた。女の子ひとりが現場で孤立しているのはかわいそうだと思った。けれどこの一言で、萌奈はようやく気づく。自分は、あの弱々しい顔に危うく騙されるところだったのだ。


 これは行き場を失った人間の懇願ではない。


 次に登る木を探しているだけだった。


 蓮は静かに目を閉じた。


 少しも驚かなかった。昨日、琴音が清司を見た瞬間の目を、彼は見ていた。いずれこうなると、どこかで分かっていた。


 伊織は背を向け、もう彼女を見ようともしなかった。怒りではなかった。心が完全に冷え切ってしまったのだ。


 かつて彼は、本気でこの人を好きだった。面倒を引き受け、誤解を解き、彼女のために何度も頭を下げた。けれど今、その記憶は乱暴に床へ叩きつけられ、音もなく粉々になった。


 蓮は伊織のそばへ行き、肩を軽く叩いた。慰めの言葉は言わなかった。こういう時、何を言っても届かないと分かっていたからだ。


 伊織は顔を上げ、無理に笑った。


「蓮、大丈夫です」


 その笑顔はいつものように明るく、頼りがいがあるように見えた。けれど蓮には分かる。彼はただ、自分の惨めなところを人に見せるのに慣れていないだけだった。


 蓮は琴音へ向き直った。


 このとき、彼はもう彼女を「琴音」とは呼ばなかった。


「水瀬、出ていって」


 琴音の顔から血の気が引いた。


 たった一つの呼び方で、彼女には伝わった。かつてあった親しさも、面倒を見た時間も、古い情も、ここで終わったのだ。


 清司は手を離した。琴音の顎には、赤い指の跡がうっすら残っている。


「聞こえたか?」


 清司は見下ろしたまま、温度のない声で言った。


「俺が外まで送ってやろうか?」


 少し間を置き、彼は何かを思い出したように薄く笑った。


「いや、やめておく。お前に使う時間などない」


 その一言は、どんな罵倒より鋭かった。


 琴音はまだ何か言おうとした。


「白銀社長、私は……」


 蓮はもう聞きたくなかった。


「森田さん、別の場所で続きをお願いします」


 萌奈は慌ててメイクボックスをまとめた。今度は余計なことを一言も言わない。


 蓮が先に部屋を出る。伊織がその後に続いた。清司も視線を引き戻し、まるで服についた埃を払っただけのような顔で歩き出した。


 琴音だけが床に残された。遠ざかる背中を見つめながら、彼女はゆっくりと拳を握る。爪が掌に食い込んでも、痛みよりも不甘心の方が強かった。


 どうして、こんなところで終われるのか。


 別の仮設メイク室で、萌奈は改めて蓮のメイクを直した。さっきよりずっと慎重で、時折こっそり蓮の様子をうかがっては、すぐに目を伏せる。


 蓮は鏡越しにそれを見ていたが、何も言わなかった。今回の件で、萌奈が一つ学んだならそれでいい。芸能界では、露骨に高圧的な人間より、哀れなふりのうまい人間の方が危険なことも多い。


 メイクが終わる頃、入口から軽い足音が聞こえた。


「蓮!」


 天羽莉央が台本を抱えて駆け込んでくる。目はきらきらと輝いていた。


「今日、来ないのかと思った!」


 沈んでいた蓮の気持ちが、少しだけ引き戻される。


「そんなわけないだろ」


 蓮は笑って、彼女の額を軽くつついた。


「莉央ちゃんとこの場面を撮りきるって約束したからね」


 莉央はぱっと笑った。現場で流れている噂を、彼女も耳にしていた。白銀社長が、蓮のアクションは今後ほとんど代役に任せるつもりらしい、と。幼い彼女にも、それが現場に不公平を生むことくらい分かる。そして蓮が、そんな形で手を抜く人ではないことも知っていた。


 だからこそ、彼がここに座っているのを見て、莉央はようやく安心したのだ。


「次、私たちの場面だよ」


 莉央は蓮の手を握った。


「蓮、待ってるからね」


「うん」


「ちゃんと行く」


 そばに立っていた清司は、少し機嫌が悪そうだった。三浦伊織が蓮のそばにいることは、ぎりぎり受け入れられる。あの人間は目障りではあるが、多くの場合、蓮の面倒を見ている。


 しかし今度は子どもまで来た。蓮の手を握り、蓮に甘える子どもだ。


 彼のものに、どうして誰もが触れるのか。


 莉央はその視線に気づいたのか、まったく怯えずに清司の前へ行った。小さな顔を上げ、真剣に彼を見る。


「あなたがスポンサーの人?」


 清司は片眉を上げた。


 莉央は胸を張って言った。


「私、蓮のことが好き」


「だから、蓮をこき使わないで」


 蓮は自分の唾でむせそうになった。


 この子はいったい何を言っているのか。


 清司はしばらく彼女を見下ろした。莉央も逃げない。まるで現場と蓮を代表して交渉しているかのようだった。


 蓮は慌てて彼女を引き戻す。


「はいはい、莉央ちゃん。そろそろ準備に行こう」


「うん!」


 莉央は頷き、最後に清司へ鼻を鳴らすような顔をしてから、スタッフと一緒に出ていった。


 清司はその背中を見送ったあと、蓮の耳元へ身を寄せた。


「蓮」


「俺たちも、ああいうのを育ててみるか?」


 蓮は目を見開いた。


「何を言ってるんだ」


 清司の口調は、冗談に聞こえないほど真面目だった。


「妖狐一族には古い血契の孕育術がある。妖血と人間の魂印を契で結べば――」


「止めろ」


 蓮は即座に遮った。


 この妖狐は本気でおかしくなったのではないか。


「白銀清司、ここは撮影現場だ」


「それに俺は男だ」


「妖界の妙な術を持ち出して俺を脅すな」


 清司は蓮の耳たぶを軽く噛み、笑いを含んだ声で囁く。


「考えるだけでも駄目か?」


 蓮の耳が一気に赤くなる。


「駄目だ」


 ちょうど遠藤監督の声が外から響いた。


「佐伯君、出番だ」


 蓮は救命ロープをつかんだような顔で、すぐ清司を押しのけた。


「撮影に行く」


 逃げるような背中を見ながら、清司の目に淡い笑みが浮かぶ。


 撮影は順調に進んだ。蓮は役に入ると、空気まで静かになる。アンドロイドのヴェドを演じる時、彼は非人間的な抑制や鈍さを、細かな動きの中に沈めていく。ただ機械のふりをするのではなく、人間を少しずつ学んでいる存在としてそこにいた。


 スタジオの外側で、黒沢明彦が影の中から蓮を見つめていた。


 カメラの中の蓮は、あまりにも澄んでいる。近づきたくなるほど、そして独り占めしたくなるほどに。


 明彦は、その欲がきれいなものではないと知っていた。それでも止められない。この人を撮りたい。自分のレンズの中に閉じ込めたい。誰にも触れられない場所に隠してしまいたい。


 欲望は潮のように胸へせり上がってくる。


 その背後から、冷たい声が落ちた。


「お前のものではない。余計なことは考えるな」


 振り返らなくても分かる。


 白銀清司だ。


 明彦は苦い笑みを浮かべた。


「白銀社長」


「あんたは金があるだけでしょう」


「出資者だからって、彼のそばに立って、全部を管理できると思っているんですか?」


 清司は怒らなかった。ここで本気でこの人間に手を出せば、蓮が嫌がると分かっているからだ。


 けれど聞かせておくべきことはある。


「それは、まずお前にも金がある場合の話だ」


 清司の声は軽かった。


「ないなら黙っていろ」


 明彦の拳が強く握られる。


 清司の眼差しには、温度がなかった。


「蓮がどういう人間か、お前も分かっているはずだ」


「お前の中のその汚い考えを知ったら、あいつは今まで通りお前に話しかけると思うか?」


 その言葉は明彦の急所を正確に刺した。怒りが目に浮かぶ。だが次の瞬間、蓮がスタジオから出てきた。


「二人で何してるの?」


 蓮は笑って尋ねた。


 明彦はすぐ、いつもの穏やかな表情に戻る。


「何でもありません」


「白銀社長と、少し人生について話していただけです」


 その言い方には、かすかな皮肉があった。


 清司は小さく笑った。


 偽善的な人間だ。


 胸の奥に吐き気のするほど醜い欲を隠しながら、蓮の前では体面のいい人間を演じている。


 清司は蓮の手を引き、自分のそばへ寄せた。


「撮影は順調か?」


 声の温度は、さきほどとまるで違った。


 蓮は頷く。


「悪くない」


「今日の出来は、けっこう満足してる」


 清司の表情も柔らかくなる。


「腹は減っていないか?」


「何か食べに行こう」


 蓮は遠藤監督に次の段取りを確認するつもりだったが、清司はもう彼の手を握っていた。二人はそのまま離れていく。


 明彦はその場に立ち尽くし、二人の背中を見送った。


 嫉妬が胸の奥で渦を巻く。


 どうして自分ではないのか。


 どうして蓮のそばに立つ男が、よりによって白銀清司なのか。


 その不甘心がどんどん濃くなった時、一筋の黒い影が無音で背後から忍び寄った。


 影はそのまま、明彦の身体の中へ潜り込む。


 明彦の身体がびくりと強張った。


 次に目を開けた時、その瞳は異様な緑を帯びていた。



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