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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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撮影現場の招かれざる者


 翌日、蓮が撮影現場へ着いたのは昼近くだった。


 以前なら、遠藤監督が表で怒鳴らないまでも、必ず呼び出して注意しただろう。けれど今日は、誰も何も言わない。


 白銀清司が一緒だったからだ。


 今や劇組の人間は皆、白銀清司が『浮遊面』の重要な出資者のひとりだと知っている。制作委員会でさえ彼を軽く扱えない。現場のスタッフなら、なおさらだった。


 蓮はその空気が好きではなかった。


 人々の目の中に、前とは違うものが混じっている。警戒、遠慮、そして媚び。


 自分が楽になったのではない。


 自分の周囲に、扱いづらい圧力が生まれただけだった。


「蓮、気にするな」


 清司は当然のように言う。


「気にするよ」


 蓮は低く返した。


「僕は役者としてここにいる。君の伴侶としてじゃない」


 清司は少しだけ黙った。


「だが、お前が傷つけられるのは嫌だ」


「だからって、全部君の力で踏み潰さないで」


 ふたりの間に短い沈黙が落ちる。


 そこへ、新しいメイクスタッフとして森田萌奈が合流した。彼女は明るく、少し遠慮がちで、初対面の蓮にも丁寧だった。


「佐伯さん、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 蓮は軽く頭を下げた。


 萌奈は琴音のことをまだ知らない。だから彼女の視線は素直で、余計な事情を含んでいなかった。


 その後、撮影が始まった。蓮はヴェドの感情が少しずつ育っていく場面を演じる。清司は隅からそれを見ていた。誰にも見られない妖ではなく、今回は投資家として堂々とそこにいる。


 昼過ぎ、現場に騒ぎが起きた。


 水瀬琴音が来ていた。


 彼女はスタッフに止められながらも、どうしても蓮に会いたいと言っているらしい。


 蓮が近づくと、琴音はすぐに駆け寄ってきた。


「蓮さん、お願いです。私をここに置いてください」


 蓮は眉を寄せた。


「どういう意味?」


「メイクでも衣装でも、雑用でも何でもします。もう前の場所にはいられないんです」


 伊織がすぐに割って入った。


「駄目だ」


 彼の声は硬い。


「彼女を現場に入れないでください」


 琴音の顔が歪んだ。


「三浦さん、どうしてそこまで……」


「自分が何をしたかわかっているだろう」


 蓮も同じ意見だった。


 琴音が本当に困っているのだとしても、一度信用できなくなった人間を、簡単にまた近くへ戻すことはできない。仕事場は情だけで回る場所ではない。


「琴音」


 蓮は静かに言った。


「帰って」


 琴音は膝から崩れ落ちた。


 まるで自分こそが、すべての人に傷つけられた被害者であるかのような顔だった。


 萌奈は事情を知らず、迷った顔でふたりを見る。


「あの……佐伯さん」


 彼女は小さく言った。


「事情はわかりませんけど、女の子ひとりで困っているなら、少しくらい……」


 琴音の目に希望が灯る。


「そうです。森田さんだって、私が女の子ひとりで大変だってわかってくれています」


「駄目です」


 伊織が強く遮った。


「彼女は何をするかわかりません」


 萌奈へ向き直る。


「あなたは新しく来たメイク担当だから、以前のことを知らないだけです」


 その時、扉が開いた。


 清司が入ってくる。


 彼はまず蓮を見て、それから床に座り込む琴音へ視線を落とした。


「これは何だ」


 琴音の目に、きらりと計算の光が浮かんだ。


 彼女は最後の希望を見つけたように、清司へ飛びつき、そのスラックスの裾をつかんだ。


「白銀社長!」


「お願いします。蓮さんに言ってください。私をここに置いてください」


 清司は自分の裾をつかむ手を見下ろした。


 顔には、隠しようのない嫌悪が浮かぶ。


 彼は人間ではない。


 けれど、潔癖だった。


 しかもかなり重度の。


 その目に、殺意がゆっくり滲んだ。


 琴音は震え、慌てて手を離して後ずさった。彼女はこれほど恐ろしい目を見たことがなかった。ほんの一瞬、本当にこの男に引き裂かれると思った。


 清司は冷ややかに彼女を見下ろした。


 一語ずつ、はっきり告げる。


「このズボンは高い」


「お前に弁償できる値段じゃない」


 琴音の顔が真っ白になる。


 彼女は指を握りしめ、唇を震わせた。


「白銀社長、わざとじゃ……ありません……」

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