取り憑いた蜥蜴妖
「伊織!」
蓮は思わず後ずさった。
清司はすぐに蓮を背後へ庇う。空気が一瞬で重くなり、部屋の中に冷たい気配が満ちた。
伊織の口元が引きつるように笑う。
「人間のくせに、ずいぶん良い匂いがするな」
声が違った。
伊織のものではない。ざらついた、湿った獣のような声。
蓮の背筋が冷えた。
「憑かれているの?」
「蜥蜴妖だ」
清司の声は冷たい。
「境界が緩んでいる。雑魚まで現世へ紛れ込んでくるとはな」
“伊織”は舌で唇を舐めた。赤い目が清司を見た瞬間、恐怖ではなく興奮が浮かぶ。
「九尾……本物か」
次の瞬間、“伊織”は清司へ飛びかかった。
清司の姿が掻き消える。ほとんど同時に、彼の掌が“伊織”の胸へ打ち込まれた。
鈍い音がした。
伊織の体から、緑色の影が弾き出される。伊織はその場に倒れ、影は床に這いつくばった。小さな蜥蜴のようでありながら、人の手足に似たものを持つ異様な妖だった。
黒赤い血がその口からこぼれている。
「なぜ現世に来た」
清司が問う。
蜥蜴妖は苦しそうに笑った。
「境が……薄い。向こうも、こっちも、穴だらけだ。強い匂いがしたから来ただけだ」
清司の顔がさらに冷えた。
蓮は伊織のそばへ駆け寄る。幸い、呼吸はある。顔色は悪いが、命に関わるようには見えなかった。
「伊織、聞こえる?」
返事はない。
清司は蜥蜴妖を見下ろした。
「二度と近づくな」
その声と同時に、金色の妖力が床へ落ちた。蜥蜴妖は悲鳴を上げる間もなく、黒い煙のように消えていった。
数分後、伊織がうめき声を漏らした。
「……蓮さん?」
「大丈夫?」
「何が……」
伊織は自分が床に倒れていることに気づき、顔をしかめる。
「僕、どうしたんですか?」
蓮は清司を見た。
清司は淡々と言った。
「低血糖だ」
伊織は明らかに信じていなかった。
けれど頭の中は真っ白で、何が起きたのか思い出せないらしい。蓮は彼を椅子に座らせながら、胸の奥が重くなるのを感じた。
妖界と現世の境界が、本当におかしくなっている。
そして蓮の人間としての生活は、もう清司の世界と切り離せなくなっていた。




