ついに捕まえた
監視カメラの映像は、あまりにも正常だった。
スタッフが出入りし、照明班が機材を運び、車が止まっては去っていく。画面の中では、すべてがいつも通りに進んでいた。
けれど蓮が探している人物は映らない。
花を持ってきた人も、白銀清司も。
蓮は心のどこかで、あの花が清司からのものだと信じたかった。朔は戻ってきたのに、清司だけが戻らないはずがない。そう思いたかった。
「蓮さん」
横に立つ伊織が、沈んでいく蓮の顔色を見て声をかけた。
「大丈夫ですか?」
蓮は深く息を吐いた。
「もういい。帰ろう」
伊織はそれ以上聞かなかった。最近の蓮の周囲には、理解しきれないことが多すぎる。彼が誰を探しているのか、誰からの贈り物を追っているのか、伊織にはわからない。ただ、その相手が蓮を特別に想っていることだけは伝わっていた。
車で公寓へ戻ると、蓮は後部座席から無言で外を見ていた。
「蓮さん、着きました」
「うん」
車を降りた瞬間、蓮は少し離れた場所に朝倉周司を見つけた。
周司は今日は青いシャツを着ていた。不思議なことに、蓮の服と色味が少し似ていて、まるで偶然のペアルックのようだった。
周司は蓮に気づくと笑った。
「蓮さん、あの人は?」
伊織がすぐに警戒する。マネージャーとして、急に蓮へ近づく人物を見過ごすわけにはいかなかった。
「新しい近所の人」
蓮は答えた。
「悪い人じゃない。大丈夫」
伊織はまだ少し不安そうだったが、蓮がそう言うなら、と頷いた。
「では、今日はこれで」
「運転、気をつけて」
伊織の車が去ると、周司が紙袋を差し出してきた。
「たぶん、まだ何も食べていないと思って」
彼は少し照れくさそうに髪をかいた。
「焼きたてのパンを少し。嫌じゃなければ」
蓮は袋を開けた。中から湯気の残るパンの香りが広がる。
「これ、周司さんが作ったの?」
「うん」
蓮は小さくちぎって口に入れた。
香ばしい甘みが、口の中でほぐれていく。こんなにおいしいパンを、男の手作りで食べたことはなかった。
「すごくおいしい」
周司の目がぱっと輝いた。
「本当?」
「うん」
「よかった」
それだけで、周司は大切な仕事を終えたような顔をして背を向けた。
蓮はその背中を見つめる。
ゆっくりと、記憶の中の白い背中と重なっていく。
そして、ひとつの大胆な疑いが胸の底から浮かび上がった。
「清司――」
周司の足が止まった。
体ごと、硬直したように動かない。
世界が、一瞬音を失った。
蓮の心臓が大きく跳ねた。
次の瞬間、彼は駆け寄り、手にしていたパンの袋を周司の胸へ投げつけた。袋は彼の胸に当たり、地面へ落ちた。
「戻っていたんだ」
蓮の声は震えていた。
「それなのに、黙っていた」
「どうして?」
周司はゆっくり振り返った。
その顔には、もう温和な近所の食堂主の表情はない。
「俺は……」
蓮は彼を見た。
清司が戻っていた。
この男は本当に戻っていた。
それなのに隣人のふりをし、店主のふりをし、ファンのふりをし、通りすがりの人間のふりをしていた。
清司は一歩近づき、蓮をそっと抱き寄せた。懐かしい匂いが近づいた瞬間、蓮の体が強張る。
何度も想像した光景だった。
けれど、想像しただけで終わると思っていた。
蓮は清司の腰に腕を回し、悔しさをぶつけるように口づけた。
どれくらいそうしていたのか、清司が先に唇を離した。蓮の頬は熱い。
また、この狐に流された。
腹立たしい。
どうしようもなく腹立たしい狐だ。
「答えて」
蓮は清司を見上げた。
「贈り物は全部、君だったのか?」
「どうして戻ったのに、すぐ来なかった?」
清司は珍しく狼狽した。
会いたくなかったわけではない。
ただ、怖かったのだ。
蓮がもう会いたくないと思っていたらどうする。
自分が戻ることで、蓮を困らせるだけだったらどうする。
清司はわずかに目を伏せた。その自信なさげな仕草は、普段の誇り高い彼とはまるで違っていた。
「怖かった」
「お前が、俺に会いたくないと思っていたらどうしようって」
蓮は笑いそうになった。というより、怒りすぎて笑うしかなかった。
どれだけ会いたかったと思っているのか、この狐は何もわかっていない。
「中に入って」
蓮はわざと不機嫌な声で言った。
「うん」
清司は素直に頷いた。
蓮が前を歩き、清司が後ろについてくる。その姿は、まるで叱られた子どもだった。
部屋の明かりをつけ、蓮はソファに座る。清司はその前に立ったままだ。
「話して」
蓮は腕を組んだ。
「何がそんなに怖かったの?」
「お前に、いらないと言われること」
「戻ってきたのに、お前が俺に会いたくないと思っていること」
「それでずっと隠れていたの?」
蓮は呆れたように言った。
「贈り物をして、隣人になって、食堂の店主になって、時々僕の生活に紛れ込んで」
清司は蓮の目を見た。
「俺は、俺の人を追いかけていただけだ」
彼は少し間を置き、妙に堂々と言う。
「他人じゃない」
蓮が反論する前に、清司は隣に座って蓮の腰を抱いた。勢いよく引き寄せられ、蓮は息を詰める。
「蓮」
清司の目が、ひどく明るい。
「俺の伴侶になってくれるか?」
伴侶。
蓮はもちろん、なりたかった。
けれど、妖は老いない。人間の命はあまりに短い。いつか清司だけを残していく未来を、考えないわけにはいかなかった。
清司は蓮の頬に手を添え、まっすぐ見つめさせる。
「俺は本気だ」
「蓮、答えて」
蓮は静かに目を伏せた。
「僕がどう思っているかくらい、君にはわかるだろう」
「ただ、何十年もあとで、君ひとりを残したくない」
清司の目が一瞬で明るくなった。
蓮が拒んでいないことを、彼は理解した。
寿命の問題、生と死の距離。今はまだ答えがない。けれど探せばいい。朔にも聞く。ほかの方法だって探す。
「なら、結婚しよう」
清司は突然言った。
「結婚?」
蓮は固まった。
男同士でスーツを着て、誰かの前で式を挙げるのか。自分は俳優で、最近の騒動もやっと落ち着きかけているところだ。現実をまったく無視することはできない。
「清司」
蓮は軽く彼の胸を押した。
「それは、あとで考えよう」
清司の目に少しだけ落胆が浮かぶ。
だが次の瞬間、彼は何かを思いついたように九尾を広げた。金色の妖力が尾の先から流れ出し、音もなく燃える炎のように部屋を満たす。
蓮が反応するより早く、清司は彼へ顔を近づけた。
金色の力がふたりの間から広がり、細かな紋のように蓮の胸元へ染み込んでいく。蓮の瞳が一瞬、同じ金色を帯びた。
契約は一度だけではなかったのか。
けれど今回の感覚は、前とは違う。短くつながるのではなく、何かが骨と血の奥へ落ちていくようだった。
金色の光の中で、清司は狐らしい狡い笑みを見せた。
「今度は終生契約だ」
「蓮、もう俺を捨てられない」
「君……」
蓮は言葉を失った。
清司はその手を取り、指先へ口づける。蓮は目を見開いたが、拒まなかった。
この契約は、前のものとは違う。
前の契約は、人間が死ねば自然に解けた。だが今回は共生の契約だ。蓮が死ねば、清司も共に消える。
妖は人間のようには死なない。
けれど魂魄は大地へ還り、二度と転生できない。
人間の言葉で言えば――魂が砕け散る。
蓮はその代償を、ぼんやりと感じ取った。
けれど意識は金色の光と清司の気配にゆっくり沈んでいく。最後に見えたのは、悪びれもなく笑う狐の顔だった。
そのあとのことは、何も覚えていない。




