赤い薔薇の予感
ファンの車で家まで送ってもらう経験は、思ったより悪くなかった。
蓮は、熱心なファンの多くを学生や会社員だと漠然と思っていた。けれどその少女は、来月から海外の美術学校へ留学するらしい。車には彼女の両親も乗っていて、ふたりとも蓮に対して驚くほど穏やかだった。
少女のスケッチブックには、美術の課題に混じって、過去の蓮のダンス姿が描かれていた。
蓮はページをめくる手を止めた。
それはずいぶん前の絵だった。まだ蓮に大きな知名度がなく、番組へ出ても数秒しか映らないことが多かった頃の姿。あの頃から誰かが見てくれていたのだと思うと、不思議な気持ちになった。
別れ際、少女はそのスケッチブックを蓮へ差し出した。
「蓮君、私はもうすぐ向こうへ行きます。でも、向こうでもずっと応援しています。だから、ずっと頑張ってください」
無条件に応援されることは、蓮にとってまだ慣れないことだった。
ファンは好きになり、離れ、時には手のひらを返す。蓮はその繰り返しを見てきた。だからこそ、何より頼れるのは自分自身だと思っていた。
それでも、この少女のまっすぐな言葉は、胸の奥を少しだけ温めた。
「ありがとう」
蓮はスケッチブックを受け取った。
「君も頑張って」
少女は泣きそうな顔で蓮を抱きしめた。
蓮は押し返さなかった。
家へ戻ると、彼はスケッチブックを丁寧にしまい、シャワーを浴びた。遠藤から二日間の休みをもらっているとはいえ、劇本をまったく読まないほど気は抜いていない。
走り込みをして、劇本を読み、気づけば外は完全に暗くなっていた。
何か食べに出ようとした時、インターホンが鳴った。
蓮は玄関へ向かった。扉を開けると、まず目に飛び込んできたのは鮮やかな赤だった。
「佐伯様ですね」
配達員らしき男が、大きな薔薇の花束を抱えている。
「こちらは、ある……男性のお客様からです」
蓮は動きを止めた。
“女性の熱狂的ファン”だと思い込んでいた人物。
彼に食べ物を送り、花を送り、車まで送ってきた相手。
それは、男だった。
「わかりました。ください」
蓮は花束を受け取り、受領欄にサインした。わざとゆっくり書きながら、注文者の名前を探す。けれど、そこには番号と配送情報しかなかった。
「すみません」
蓮は配達員を呼び止めた。
「その人は、僕より背が高そうでしたか?」
直接尋ねるのは不自然だ。だから蓮は、記憶の中の誰かの特徴を遠回しに探ろうとした。
配達員は蓮を見上げるように眺め、首を振った。
「申し訳ありません。ネット注文ですので、こちらではお客様の外見はわかりません」
ネット注文。
蓮は心の中で冷笑した。
この世界に馴染むのだけは早いらしい。
部屋へ戻ると、嬉しさが胸の大部分を占めていた。けれどその下には、言いようのない不安が沈んでいる。
もし本当に戻っているなら、なぜすぐに会いに来ないのか。
彼はずっと近くにいて、自分だけが気づけなかったのか。
それとも、この世界に存在するための制限があり、姿を見せられないのか。
蓮は部屋を見回した。ソファ、テレビ、机、棚、階段、キッチンの入口。
ふいに手を伸ばす。
けれど掌に触れるものは何もない。
清司はここにいない。
その事実だけが、妙に鋭く胸に刺さった。
蓮は花束をテーブルに置き、カードを抜いた。
そこにはまた同じ字がある。
佐伯蓮へ。
最初に花をもらった時、蓮は好奇心と警戒でいっぱいだった。何もかもが面倒な時期に、正体不明の誰かから示される好意は、そう簡単に受け取れるものではない。
けれど今は違う。
その人物に心当たりができた瞬間、蓮は自分でも気づかないほど柔らかく笑っていた。
少なくとも、あの気配は自分だけの錯覚ではなかった。
たとえ最後に会えなくても、これで少しは後悔せずに済むかもしれない。
蓮はスマホを手に取り、玄関へ向かいながら伊織へ電話をかけた。
「伊織。劇組に知り合いはいる?」
「蓮さん?急にどうしたんですか?」
「後の数週間分の監視カメラ映像を、できるだけ集めてほしい」
「監視カメラ?誰かに嫌がらせされているんですか?」
「違う。詳しいことは後で話す」
蓮は声を落とした。
「それと、僕が見たいと言っていることは伏せて。できれば、不審に思われない形で」
「蓮さん、ますますわからなくなりましたよ」
伊織は困惑したが、最終的には引き受けた。




