あまりにも彼に似た男
蓮は明彦のスタジオへ足を踏み入れた。
芸術の川に浸かって育った人間の部屋というのは、こういうものなのだろうか。壁には写真、絵画、誰のものかわからない模写が並び、棚には古いカメラと本が無造作に積まれている。
現実の世界に長くいすぎたせいか、蓮はここにいる自分だけが少し浮いているような気がした。
明彦は先ほど窓から声をかけた場所にいた。いつもの気楽な服装とは違い、今日は机の上に書類を積み上げ、眼鏡までかけている。少しだけ学者のようにも見えた。
もっとも、机の脇には今にも落ちそうな灰皿、吸い殻、空の弁当箱、ソファに掛かった服。ここが仕事場であり、彼の生活の場所でもあることは一目瞭然だった。
「すみません。少し立て込んでいて」
「大変そうですね」
たぶん仕事が多いのではなく、先延ばしにした仕事が一気に押し寄せているのだろう。蓮はそう思ったが、口にはしなかった。
伊織と明彦が撮影時間を詰めている間、蓮は部屋を眺めていた。芸術のことはよくわからない。それでも、この雑然とした空間には、明彦らしさがある。
自由で、散らかっていて、それでも現実に簡単には屈しないような匂い。
「どうですか、蓮さん。この時間で」
呼ばれて、蓮は振り返った。
「大丈夫です」
伊織はため息をついた。どう見ても、蓮は途中から話を聞いていなかった。
「では明日、撮影です」
「わかりました」
「それから、明日は同じシリーズで別のモデルも入ります」
蓮は軽くうなずいた。相手が俳優でも事務所の同僚でもないなら、必要以上に気を使うつもりはない。
明彦は仕事へ戻り、伊織も会社の用事で先に出た。
蓮はすぐ帰るのも気まずく、客間のソファに座った。外にはまだファンがいる。せっかくの休みを、即席ファンミーティングに変える気はなかった。
「やあ」
背後から声がした。
「君も今日、写真を撮りに来たの?」
蓮が振り向くと、入口にひとりの男が立っていた。
その瞬間、蓮の体がわずかに強張った。
すぐに、自分が勘違いしただけだと気づく。けれど、その顔立ち、声の調子、立っている時の空気が、あまりにも誰かに似ていた。
「あなたは?」
「すみません。急に話しかけて。言いたくなければ大丈夫です。明彦から少し聞いていたので」
普段なら、蓮は知らない相手の雑談に深く乗らない。
けれど、その男が心の中にいる人に似すぎていて、いつもの冷静な距離を保てなかった。
「明日もここに?」
「うん。黒沢明彦は将来有名になる写真家だと聞いた。友人にも、いい機会だと言われた」
「それなら、僕よりあなたの方が運がいいですね」
「どうして?」
蓮は少しだけ笑った。
「あなたは誰かから僕の話を聞いている。でも僕は、今日あなたに初めて会った」
本当は、それだけではない。
あなたが、あの人に似ているから。
その言葉は、もちろん飲み込んだ。
男は本をぱらぱらめくりながら、少し考えてから言った。
「そうとも限らない。君が優れているから、誰かが僕に君の話をしたんだ」
あまりに率直な褒め方に、蓮は驚いた。
彼は無意識に、目の前の男へ清司の性格を重ねていた。けれど清司なら、こんなふうにまっすぐ褒めたりしない。
「そうですか。では、やっぱり僕はあまり運がない」
蓮は立ち上がった。
「そろそろ帰ります。黒沢さんに伝えておいてください」
男は何も言わず、蓮が扉の前で足を止めるのを見ていた。
蓮はようやく思い出した。
外にはまだファンがいる。
このまま出れば、完全に自分から罠に飛び込むようなものだ。
「ふっ」
背後で男が笑った。
「別の出口を知っている」
「本当に?」
「急ぐなら、案内するよ」
蓮は数秒考え、うなずいた。
「お願いします」
スタジオの裏手から外へ出たものの、どこを通っているのかまったくわからない。木立の間を抜け、草の茂る小道を進み、蓮は一瞬、自分が冒険番組にでも出ているのではないかと思った。
数分後、ようやく道路が見えた。
男は蓮を道端まで連れていき、通りかかった車を止めた。運転席から顔を出したのは、蓮のファンらしい若い女性だった。
「ほら」
男は笑った。
「大スターを送り届けたい、親切なファンだ」
蓮は妙に恥ずかしくなった。
この人との会話は、本当に清司に似ている。
車に乗り込み、窓を閉めようとした時、男が呼んだ。
「蓮さん」
「何ですか?」
男は薄く笑って手を振った。
「また明日」
「え――」
蓮が何か言う前に、車は走り出した。
彼は思わず半身を乗り出して後ろを見た。男はまだ道端に立っていた。こちらを見送っているように見える。
人の勘というものは不思議だ。
顔が見えなくなるほど離れても、蓮にはまだ、その男と目が合っている気がした。
「きゃあ、本当にうれしい!」
隣の少女が興奮で声を震わせた。
「佐伯蓮さん、サインしてもらえますか?」
蓮はゆっくり座り直し、目を輝かせるファンを見た。
「もちろん」




