次々届く赤い薔薇
蓮は彼女の差し出したノートに名前を書いた。
書き終えた時、ノートの端に自分の配信で話したことや、好みらしきメモが並んでいるのが目に入った。全部ではない。けれど、かなり細かいところまで記録されている。
女の子は気づかれたと悟ったのか、顔を真っ赤にした。
蓮は何も言わなかった。素早くサインを終え、テーブルの上に視線を落とす。彼女の前には、半分ほど残ったケーキがある。それは自分へ届いたものと同じだった。
「これは、君が頼んだの?」
女の子は小さくうなずいた。
蓮の胸に、ほんのわずかな落胆が沈む。
「ありがとう」
「い、いえ……こちらこそ」
サインを終え、蓮は階段を下りた。彼がいなくなると、サインをもらった少女は震える手でノートを抱きしめた。
そして、背後の席をそっと振り返る。
そこには、蓮に背を向けて座る男がいた。
「どうして佐伯蓮が絶対に二階へ来るってわかったんですか?」
少女は声を潜めながら、目を輝かせた。
「ありがとうございます!」
男は振り返らない。
「友人だから」
「じゃあ、どうしてあなたがケーキを頼んだって言わなかったんですか?」
男はようやく少しだけ顔を向けた。
もし蓮がまだそこにいたら、きっと気づいただろう。その柔らかすぎる表情に。
「驚かせたかったから」
蓮が席に戻ると、伊織と明彦が心配そうにこちらを見ていた。
「蓮さん、今のは?」
「何でもない。二階にファンがいて、サインを書いてきただけ」
蓮はそう答えたが、明彦は彼の表情に残る失望を見逃さなかった。ただのファンなら、あんなふうに走っていくはずがない。
けれど、明彦に踏み込む権利はなかった。
伊織は仕事の話へ戻した。
「時間は決まりました。少し詰まっていますが、遠藤監督にも確認済みです。その頃なら一日か二日、空けられそうです」
「わかった。問題ない」
「では、来週火曜日に」
「来週火曜日に」
蓮は店を出た。外はまだ暑い。彼は街角に立ち、しばらく何も考えないようにした。気づかないうちに、二階の窓際からひとりの男がコーヒーを手に、静かに彼の背中を見送っていた。
数日後、『浮遊面』の撮影が再開した。
「ヴェド、よくなるよね?」
天羽莉央演じる“小さな主人”が、実験台の横で泣きそうな声を出す。
蓮は冷たい台の上に横たわっていた。透明なチューブが何本も体につながれ、特殊メイクで青白く見える肌は、壊されかけたアンドロイドそのものだった。
彼はゆっくり目を開け、感情の起伏がない声で言う。
「小さなご主人様。僕の内部エネルギーは、損傷後に一万回の自己修復を可能にします」
「今回は、三百八十二回目です」
「残存バッテリーも、あと百三十年は稼働できます」
「心配は不要です」
莉央は赤い目で“博士”を見る。
「博士、ヴェドはどれくらいで元に戻るの?」
博士役の俳優はデータボードへ目を落とし、重い声で答えた。
「損傷が軽ければ三日以内に復元できる。だが今の彼は、ゆっくり自己修復するしかない」
「どれほどかかるかは……彼を作った者にしかわからない」
「カット」
遠藤の声が響く。
蓮は実験台から体を起こし、体についたチューブを一本ずつ外した。こういう小道具は、どうしても肌に違和感を残す。
「佐伯君は、ここから数日休みでいい」
遠藤が近づいてきた。
「ちょうど写真の仕事もあるんだろう?」
「はい。では、今日は失礼します」
「佐伯君、ちょっと待ってください」
背後からスタッフの声がした。
振り返ると、スタッフが真っ赤な薔薇の大きな花束を抱えて走ってくる。
周囲の視線が一気に蓮へ集まった。
蓮の口元が引きつる。
いったいどこの“ファン”なのか。いつか必ず引っ張り出して話をしなければならない。
「これは?」
「佐伯さん宛です」
「ファンから?」
「はい。ファン有志からの応援品だと言って、仕事の邪魔はしたくないから撮影後に渡してほしいと」
「その人は?」
「もう帰りました」
蓮は花束を受け取った。
「次に花を持ってきた人がいたら、すぐ知らせてください」
「わかりました」
「ありがとう」
蓮は薔薇の香りをかすかに吸い込んだ。中には白いカードが挟まっている。
そこには、相変わらず同じ言葉だけがあった。
佐伯蓮へ。
蓮はふっと笑った。
まだ相手の正体はわからない。それなのに、心のどこかではもう、こっそり感謝している自分がいる。
スタジオの前には伊織の黒い車が停まっていた。伊織は蓮が大きな赤い薔薇を抱えて出てきたのを見て、しばらく言葉を失った。
「蓮さん、それは……」
「ファンから」
「……乗ってください」
車に乗り込むと、伊織は少し困った顔で言った。
「黒沢さんから連絡がありました。もうスタジオで待っているそうです。ただ……」
「ただ?」
「誰かが今日の写真撮影を漏らしたみたいで、スタジオの外にファンが集まっているそうです。入るのが少し大変かもしれません」
蓮は一瞬だけ固まり、それから小さく首を振った。
「行ってみよう」
明彦のスタジオは市内から離れた場所にあった。車で一時間以上かかる。周囲は緑が深く、空気も澄んでいる。
ただし、入口に詰めかけたファンの声を無視できれば、の話だ。
「佐伯蓮!」
「本物だ!」
「蓮君、応援してる!」
フロントガラス越しにも歓声が突き刺さる。
蓮は伊織と顔を見合わせ、諦めたように車を降りた。
幸い、明彦は警備の手配をしていた。ファンが飛びかかってくることはない。
「蓮さん!」
上の窓から声がした。
見上げると、明彦が半身を乗り出していた。蓮のうんざりした顔を見て、彼は笑いをこらえきれない様子だった。




