見間違えたケーキ
「黒沢さん?」
蓮は少し驚いた。
明彦もこの時間に蓮がいるとは思っていなかったらしく、向かいの席を引きながら目を丸くした。背後から店員がメニューを差し出す。
「ご注文はお決まりですか?」
「あ……ええと」
明彦はメニューを開いたものの、視線はどうしても蓮へ向いた。黒いコーヒー、食べかけのティラミス。蓮の口元には、ほんの少しだけクリームが残っている。
写真家にとっては、それさえ一枚の絵になるのかもしれない。
「お客様?」
店員に声をかけられ、明彦はようやく我に返った。
「じゃあ、彼と同じものを」
店員の目が一瞬だけ意味ありげに揺れた。
「かしこまりました」
店員が離れると、蓮は紙ナプキンで口元を拭いた。
「約束は午後二時だったと思います。まだ十一時ですよ。どうしてこんなに早く?」
「今日は撮影がないの?」
「昨日は順調でした。今日は一日休みです。そうでなければ、ここへ来る時間もありません」
蓮はコーヒーをひと口飲んだ。
「黒沢さんこそ、仕事の打ち合わせなら早すぎるでしょう」
「仕事だけのつもりではなかったんです。このあたりで少し写真を撮りたくて。ここ、雰囲気がいいと聞いたので」
蓮は店内を見回し、それから明彦を見た。
「だからここを打ち合わせ場所に?」
「気に入りませんでしたか?」
「いえ。ただ、かなり感覚で動く人なんだなと思って」
「僕はわりと感情で動くタイプなので」
明彦は素直に認めた。
蓮はそれ以上評価しなかった。スマホを見ると、まだ十二時にもなっていない。約束の時間まで二時間以上ある。
「少し外を歩いてきます」
蓮は立ち上がった。
「二時に戻ります」
「蓮さん――」
明彦が呼び止めようとした時には、蓮はすでに階段の方へ歩いていた。角を曲がる直前、彼は軽く振り返って笑った。その笑顔だけを残して、蓮は消えた。
明彦は苦笑した。
もう少し話したかった。撮影のイメージも聞きたかったし、蓮がどんな表情で世界を見るのか、もっと観察したかった。けれど相手は、簡単につかまってくれる人ではないらしい。
やがて伊織が到着した。
「黒沢さん、早いですね」
「今日は時間があったので」
「急ぎなら、蓮さんに連絡します」
「大丈夫です。さっき会いました」
「蓮さん、もう来ていたんですか?」
「ええ。少し前から。けれど、すぐ出ていきました。また戻ると思います」
伊織は一度スマホを手に取ったが、電話はかけず、メッセージだけを送った。
【蓮さん、カフェに着きました。黒沢さんにも会っています】
その頃、蓮は近くの甘味店で冷たいデザートを食べていた。真夏の日差しは容赦なく、舗道を白く焼いている。蓮はスプーンでアイスクリームをすくい、口に入れた。舌先から喉へ冷たさがすっと落ちていく。
少しだけ気分が落ち着いた。
それでも、時間は止まらない。蓮は渋々立ち上がり、約束のカフェへ戻った。
再び店へ入ると、窓際の席に明彦と伊織が座っているのが見えた。蓮はまっすぐ歩いていき、伊織の隣に座った。
「ちょうど二時です」
蓮は明彦を見た。
「遅刻はしていません」
さらに、少しだけ肩をすくめる。
「仕事の話なら、基本的には伊織と進めてもらって構いません。僕がいなくても問題ないでしょう」
「今回の被写体は蓮さんです。少しでも話しておいた方が、撮る時に楽になります」
明彦の言葉は真面目だった。
蓮は反論しなかった。
三人は撮影の流れについて話した。撮影は一週間後、場所は明彦のスタジオ。細かな時間は明彦が伊織へ連絡し、伊織から蓮へ伝えることになった。
話がひと段落したところで、店員がトレーを持って近づいてきた。
皿の上には、綺麗に飾られたケーキがあった。
蓮は顔を上げる。
「これは?」
「佐伯様へ、二階のお客様からです。ファンの方だそうです。どうか受け取ってほしいと」
蓮の体が一瞬で固まった。
次の瞬間、彼は店員の手首をつかんでいた。
「その人、まだ二階にいますか?」
店員は驚いて目を見開いた。
「え、あの、たぶん先ほどまでは――」
言い終わる前に、蓮は立ち上がって階段へ向かっていた。
強い予感が胸を叩いていた。
毎回、彼の好きなものを送ってくる人。
会社へ花を届けた人。
車一台と薔薇で彼を困らせた、あの“ファン”。
もしかしたら、全部同じ人物ではないのか。
そしてその人物が誰なのか、蓮にはもうほとんどわかっていた。
青みがかった髪。
初めて会った時から、この世界の服を妙に自然に着こなしていた男。
何も言わないくせに、必要な時だけ正確に現れる男。
蓮は二階へ駆け上がり、ひとりの男の肩をつかんだ。
「清司!」
男が驚いて振り返る。
知らない顔だった。
警戒と戸惑いだけが浮かんだ、まったく別の顔。
蓮は固まった。数秒後、ゆっくり手を離す。
「すみません。人違いでした」
「え、佐伯蓮さんですか?」
向かいの席に座っていた若い女性が、椅子から立ち上がりそうな勢いで声を上げた。
「ファンです。サイン、お願いできますか?」
蓮は乱れた感情を胸の奥へ押し込め、いつもの笑みを作った。
「もちろん」




