表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
70/103

見間違えたケーキ

「黒沢さん?」


 蓮は少し驚いた。


 明彦もこの時間に蓮がいるとは思っていなかったらしく、向かいの席を引きながら目を丸くした。背後から店員がメニューを差し出す。


「ご注文はお決まりですか?」


「あ……ええと」


 明彦はメニューを開いたものの、視線はどうしても蓮へ向いた。黒いコーヒー、食べかけのティラミス。蓮の口元には、ほんの少しだけクリームが残っている。


 写真家にとっては、それさえ一枚の絵になるのかもしれない。


「お客様?」


 店員に声をかけられ、明彦はようやく我に返った。


「じゃあ、彼と同じものを」


 店員の目が一瞬だけ意味ありげに揺れた。


「かしこまりました」


 店員が離れると、蓮は紙ナプキンで口元を拭いた。


「約束は午後二時だったと思います。まだ十一時ですよ。どうしてこんなに早く?」


「今日は撮影がないの?」


「昨日は順調でした。今日は一日休みです。そうでなければ、ここへ来る時間もありません」


 蓮はコーヒーをひと口飲んだ。


「黒沢さんこそ、仕事の打ち合わせなら早すぎるでしょう」


「仕事だけのつもりではなかったんです。このあたりで少し写真を撮りたくて。ここ、雰囲気がいいと聞いたので」


 蓮は店内を見回し、それから明彦を見た。


「だからここを打ち合わせ場所に?」


「気に入りませんでしたか?」


「いえ。ただ、かなり感覚で動く人なんだなと思って」


「僕はわりと感情で動くタイプなので」


 明彦は素直に認めた。


 蓮はそれ以上評価しなかった。スマホを見ると、まだ十二時にもなっていない。約束の時間まで二時間以上ある。


「少し外を歩いてきます」


 蓮は立ち上がった。


「二時に戻ります」


「蓮さん――」


 明彦が呼び止めようとした時には、蓮はすでに階段の方へ歩いていた。角を曲がる直前、彼は軽く振り返って笑った。その笑顔だけを残して、蓮は消えた。


 明彦は苦笑した。


 もう少し話したかった。撮影のイメージも聞きたかったし、蓮がどんな表情で世界を見るのか、もっと観察したかった。けれど相手は、簡単につかまってくれる人ではないらしい。


 やがて伊織が到着した。


「黒沢さん、早いですね」


「今日は時間があったので」


「急ぎなら、蓮さんに連絡します」


「大丈夫です。さっき会いました」


「蓮さん、もう来ていたんですか?」


「ええ。少し前から。けれど、すぐ出ていきました。また戻ると思います」


 伊織は一度スマホを手に取ったが、電話はかけず、メッセージだけを送った。


【蓮さん、カフェに着きました。黒沢さんにも会っています】


 その頃、蓮は近くの甘味店で冷たいデザートを食べていた。真夏の日差しは容赦なく、舗道を白く焼いている。蓮はスプーンでアイスクリームをすくい、口に入れた。舌先から喉へ冷たさがすっと落ちていく。


 少しだけ気分が落ち着いた。


 それでも、時間は止まらない。蓮は渋々立ち上がり、約束のカフェへ戻った。


 再び店へ入ると、窓際の席に明彦と伊織が座っているのが見えた。蓮はまっすぐ歩いていき、伊織の隣に座った。


「ちょうど二時です」


 蓮は明彦を見た。


「遅刻はしていません」


 さらに、少しだけ肩をすくめる。


「仕事の話なら、基本的には伊織と進めてもらって構いません。僕がいなくても問題ないでしょう」


「今回の被写体は蓮さんです。少しでも話しておいた方が、撮る時に楽になります」


 明彦の言葉は真面目だった。


 蓮は反論しなかった。


 三人は撮影の流れについて話した。撮影は一週間後、場所は明彦のスタジオ。細かな時間は明彦が伊織へ連絡し、伊織から蓮へ伝えることになった。


 話がひと段落したところで、店員がトレーを持って近づいてきた。


 皿の上には、綺麗に飾られたケーキがあった。


 蓮は顔を上げる。


「これは?」


「佐伯様へ、二階のお客様からです。ファンの方だそうです。どうか受け取ってほしいと」


 蓮の体が一瞬で固まった。


 次の瞬間、彼は店員の手首をつかんでいた。


「その人、まだ二階にいますか?」


 店員は驚いて目を見開いた。


「え、あの、たぶん先ほどまでは――」


 言い終わる前に、蓮は立ち上がって階段へ向かっていた。


 強い予感が胸を叩いていた。


 毎回、彼の好きなものを送ってくる人。


 会社へ花を届けた人。


 車一台と薔薇で彼を困らせた、あの“ファン”。


 もしかしたら、全部同じ人物ではないのか。


 そしてその人物が誰なのか、蓮にはもうほとんどわかっていた。


 青みがかった髪。


 初めて会った時から、この世界の服を妙に自然に着こなしていた男。


 何も言わないくせに、必要な時だけ正確に現れる男。


 蓮は二階へ駆け上がり、ひとりの男の肩をつかんだ。


「清司!」


 男が驚いて振り返る。


 知らない顔だった。


 警戒と戸惑いだけが浮かんだ、まったく別の顔。


 蓮は固まった。数秒後、ゆっくり手を離す。


「すみません。人違いでした」


「え、佐伯蓮さんですか?」


 向かいの席に座っていた若い女性が、椅子から立ち上がりそうな勢いで声を上げた。


「ファンです。サイン、お願いできますか?」


 蓮は乱れた感情を胸の奥へ押し込め、いつもの笑みを作った。


「もちろん」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ