戻らない狐を待つ約束
「それは、信じるとか信じないとかの問題じゃない」
蓮は、ほとんど反射的にそう言っていた。
たとえ自分が「信じる」と口にしたところで、白銀清司が映画のように扉の向こうから現れるわけではない。彼がいきなり目の前に立って、あの腹立たしいほど綺麗な顔で「戻ってきた」と笑うはずもない。
だから、この問いに意味はない。少なくとも蓮は、そう自分に言い聞かせていた。
宵宮朔は静かに息を吐いた。ある意味で、蓮と清司はよく似ている。どちらも、不確かなものに期待するのが苦手だった。大切であればあるほど、先に認めることができない。「戻ってくるかもしれない」「まだ想っているかもしれない」そんな言葉は、彼らにとって優しい慰めではなく、外れた時に胸を裂く刃に近かった。
「ただ、聞いてみただけだよ」
朔の声は淡かった。
蓮はその横顔を見て、かすかに眉を寄せた。普段の朔は、余計なことを言うタイプではない。たいていは早乙女律のそばで、肩に落ちた雪のように静かに立っている。なのに今日に限って、清司の話だけを何度も引き出そうとしている。
何かを知っているのか。
そう思っても、朔が口を開かない以上、蓮には問い詰める理由がなかった。
「信じていない」
最後に蓮がそう言うと、朔は少しだけ笑った。
「そう答えると思っていた」
ますます妙だった。
その時、ずっと黙っていた律が口を開いた。
「今日は取引先に会う」
蓮が顔を向けると、律はいつもの落ち着いた声で続けた。
「服飾関係のデザイナーたちだ。お前も来るか?」
律がこういう誘いをするのは珍しい。もし彼らの間に何の縁もなければ、蓮を自分の仕事の場に連れていこうとはしなかっただろう。けれど同居疑惑で巻き込まれ、清司と朔の縁でつながった今、彼らは少なくともただの他人ではなかった。
蓮には律の気遣いがわかった。
それでも、今の蓮には新しい人間関係を増やす余裕がない。仕事、撮影、写真集の打ち合わせ、事務所、伊織の恋愛問題、そして正体のわからない贈り物。あまりにも多くのものが生活の隙間を埋めていた。
「今日はやめておく」
蓮は首を振った。
「用事が多いんだ。今度、時間が合ったら食事に誘うよ」
「そうか」
律はそれ以上引き止めなかった。朔もまた、何か言いたげな目をしただけで、口にはしなかった。
蓮はカフェを出て、タクシーを拾い、そのまま自宅へ戻った。車がマンションの前に着いた時、夜の色はもう低く街へ降りていた。
蓮の部屋は一階にある。最初にここを選んだ理由は、階段もエレベーターも面倒だったからだ。けれど今となっては、誰かが贈り物を置いていくには都合がよすぎる場所でもあった。
そんなことを思った瞬間、蓮は自分に呆れた。
いつから自分は、玄関先に物が置かれていることに慣れてしまったのだろう。
部屋へ入ると、まだ照明をつける前にスマホが震えた。三浦伊織からのメッセージだった。
【明日午後二時、市内のカフェで黒沢明彦さんと写真撮影の打ち合わせです】
蓮はしばらく画面を見つめた。
午後二時。
市内のカフェ。
黒沢明彦。
たったそれだけの仕事連絡なのに、なぜかひどく疲れた。結局、彼は「了解」とだけ返した。
翌朝、蓮はまた着替えもせず、シャワーも浴びずに眠っていたことに気づいた。靴さえ脱いでいない。手にはスマホを握ったままで、画面には昨夜の伊織のメッセージが残っている。
時計はまだ朝の六時を指していた。
早すぎる時間だった。
蓮はゆっくり起き上がり、洗面所へ向かった。歯を磨き、顔を洗い、シャワーを浴びる。体は起きているのに、心だけは昨夜の朔の問いから抜け出せない。
清司が戻ってくると信じるか。
信じていない。
けれど、信じていないことと、望んでいないことは違う。
シャワーを終えたあと、蓮は珍しく少しだけ気に入っている服を選んだ。正装ではない。けれど、着慣れていて、自分の輪郭が落ち着く服だった。
家を出ると、通りの向こうから明るい声が飛んできた。
「蓮さん!」
朝倉周司が、野菜の入った籠を抱えて立っていた。籠が体の半分を隠している。彼はそれを少し横へずらし、明るい顔をのぞかせた。
「おはよう、周司さん」
蓮も軽く挨拶した。
不思議なことに、彼を見ると気持ちが少し楽になる。朝の光が窓へ差し込むように、周司の笑顔は妙にまっすぐだった。
「今日は早いね。仕事?」
「うん。家にいても仕方ないし、早めに行こうと思って」
「じゃあ、うちで少し食べていって。どうせ朝ごはん、まだでしょ?」
本当なら断るべきだった。
なのに、周司の笑顔に押されて、蓮の口から出たのは別の答えだった。
「じゃあ、少しだけ」
ふたりは「朝待ち食堂」に入った。まだ混み合う前の店内には、米の香りと茶碗蒸しの湯気が漂っていた。周司は野菜を奥へ預けると、すぐに卵蒸しの皿を持って蓮の向かいに座った。
「ここは、ひとりでやっているの?」
「うん……いや、正確には、僕と友人の店かな」
周司は少しだけ言いよどんだ。
「その友人も、そのうち戻ってくると思う」
蓮はそれ以上聞かなかった。誰にでも、簡単に触れられたくない沈黙がある。自分にだって、そういう場所はいくつもあった。
「朝も昼も夜も営業?」
「朝と夜は僕が厨房に入る。昼は別の料理人がいるよ」
「じゃあ、昼に来ても周司さんには会えないのか」
周司の目がぱっと明るくなった。
「昼にも来てくれるの?」
わかりやすすぎる反応に、蓮は思わず笑った。
「撮影の昼休みは短いから、たぶん来られない。でも近くにいたら連絡する」
「本当?」
「うん。覚えていたら」
それだけで周司は満足したように笑った。
蓮は食事を終え、店を出た。その足で市内のカフェへ向かった。約束の時間まではまだかなりある。けれど、家にいても考えることは同じだった。
カフェに入ると、店員がすぐに迎えてくれた。
「おひとりさまですか?」
「あとで友人が来ます。三人です」
蓮は窓際の席を選び、黒いコーヒーとティラミスを頼んだ。
店員が去ったあと、蓮はぼんやりとメニューの端を見つめた。劇本のことを考えるつもりだった。写真撮影のことを整理するつもりだった。
けれど頭の中を回るのは、やはり同じ問いだった。
清司が戻ってくると信じるか。
「やあ、蓮さん」
声がして、蓮は顔を上げた。
テーブルの横に立っていたのは、黒沢明彦だった。




