いちばん欲しい時に現れた証人
伊織の言葉に、琴音は何も言えなかった。
普段の伊織は温和だ。喧嘩をしても、最後には彼女に合わせてきた。けれど二人はもう別れている。彼が彼女や彼女の隣にいる男まで庇う理由はなかった。
琴音は唇を噛み、伊織を睨む。
「わかっているくせに」
「言わなくても、あなたが一番わかってるはずでしょ」
伊織はもう、その言い方に慣れてしまっていた。
「とにかく、一度ちゃんと話したい」
彼は陽太へ目を向けた。
陽太は明らかに居心地が悪そうだった。琴音はその様子に苛立ち、彼を睨む。
「長くはかからない」
蓮は数分黙っていたが、ようやく口を開いた。
「彼も一緒に来ればいい。話が終わったあと、琴音を連れて帰ればいい」
ここまで言われて拒むのは不自然だった。
陽太はしばらく迷ったあと、頷く。
「わかりました。僕も行きます」
後部座席に琴音と陽太を乗せ、車はカフェへ向かった。後ろでは二人が小声で言い合っている。
蓮は最初、伊織が傷つくのではないかと気にしていた。だが伊織は一度後ろを見ただけで、すぐに視線を前へ戻した。
もう、この恋を諦めているのかもしれない。
場所は、少し格式のあるカフェだった。
琴音は店名を見て、わずかに表情を変えた。ここは、伊織が初めて彼女を誘い、気持ちを伝えた場所だった。
もし陽太が隣にいなければ、今夜は過去の情を取り戻す夜になったのかもしれない。
しかし現実には、そんな甘さは残っていなかった。
陽太はその場所の意味など知らない。彼の関心は、どうすれば蓮と少しでもつながれるかだけに向いているようだった。
「蓮さん。彼女と二人で話してもいいですか」
伊織が言った。
三人は少し驚いた。
蓮は構わなかったが、琴音と陽太の顔には明らかな抵抗があった。
結局、蓮は陽太を見た。
「林さんには少し外してもらいます。十五分だけです」
陽太が席を外し、三杯の珈琲が運ばれたあと、個室は奇妙に静かになった。蓮と伊織が並んで座り、向かいに琴音がひとりで座っている。
まるで尋問のようだ。
「言いたいことがあるなら言って」
伊織は前置きなしに切り出した。
「前に、僕と蓮さんのことを誤解した件。誰から聞いた?」
琴音は固まった。
まさか蓮本人の前で、それをそのまま言うとは思っていなかったのだ。
彼女は奥歯を噛みしめる。
「どう言われても、私はあなたたちが清白だとは思えない」
まただ。
根拠ではなく、決めつけ。
伊織の手がテーブルの上で少しずつ握られていく。蓮は彼の腕へ軽く手を置き、首を横に振った。
「琴音」
蓮の声は、伊織よりずっと静かだった。
琴音の表情は少し緩んだが、視線は上げられない。
「君は、僕たちより誰かの言葉を信じるの?」
「蓮さんを信じていないわけじゃありません」
琴音の声は低い。
「私は事実を信じているだけです」
「君が見た事実は何?」
蓮は問い返す。
「どんな事実が、僕と伊織の間に何かあると断言できる証拠になる?」
琴音は何かを言いかけた。だが蓮と目が合った瞬間、また視線を落とす。
「蓮さん。この件を、彼と一緒に説明し続けなくてもいいんです」
「私たちが自分でわかっていれば、それでいいじゃないですか」
「それに、蓮さんは人にどう見られるかを気にしない人でしょう?」
蓮の目が少し細くなった。
その奥に冷たさが浮かぶ。
「僕が他人の目を気にしないことと、存在しない話を事実にされることは別だ」
声は軽い。けれど、琴音の背中には寒気が走った。
「君は事実を信じると言った。なら、その事実を出して」
琴音は珈琲カップを握る指に力を込めた。
「そこまで言うなら、本当にあなたの家に住んでいた人はどこにいるんですか」
「あの男は?」
「どうして連れてきて証明できないんですか?」
伊織の顔が沈んだ。
蓮もようやく理解する。
琴音は単に騙されているだけではない。自分の信じたい形を選び、それを事実だと言い張っている。
そのとき、個室の入口から聞き慣れた声がした。
「蓮さん?」
蓮が顔を上げる。
早乙女律が立っていた。
その隣には、宵宮朔もいる。
偶然通りかかったようにも、最初から探してきたようにも見えた。
朔は室内の空気を見て、すぐに眉をひそめる。
「何があったの?」
蓮は一瞬、どう説明すべきか迷った。
それでも結局、これまでの経緯を短く話した。自分と律が偷拍视频で同居恋人のように書かれたこと。琴音が、その相手を伊織だと誤解したこと。そして今日、説明のためにここへ来たこと。
律の顔は聞くほどに冷えていった。
朔も、琴音を見る目が静かに鋭くなる。
「証拠もないのに、人の関係を事実だと決める」
朔の声は重くない。けれど不思議な圧があった。
「それは誤解じゃない。傷つけているんだよ」
琴音の顔色が白くなる。
律はもっと直接だった。
「証拠が欲しいんだろう」
彼は空席へ座り、淡々と言う。
「媒体に撮られた、佐伯蓮の家へ出入りしていた男は僕だ」
琴音は顔を上げた。
彼女は律を見て、それから朔を見る。
「僕と佐伯蓮は友人にすぎない」
律は続ける。
「所属実業団と弁護士を通じて、近いうちに正式な説明を出す。偷拍映像と同居報道について、事実と違う部分はすべて釈明する」
そこで律の声が少し冷えた。
「もし君が、今後も伊織と蓮さんに関する根拠のない話を広げるなら、それはもう感情問題じゃない」
「名誉毀損、侮辱、民事赔償の話になる」
「弁護士函は、そう遅くない」
琴音は完全に青ざめた。
陽太はここにいない。彼女を庇う者はいない。
彼女は縋るように伊織を見た。
だが伊織は目の前の珈琲を見つめているだけで、顔を上げなかった。
この恋は、会社の前に陽太が現れた時点で、もう終わっていたのかもしれない。
琴音は立ち上がった。
「私……」
何かを説明しようとしたが、言葉は続かなかった。
最後に、かすれた声で言う。
「ごめんなさい」
それだけ言って、彼女は個室を出ていった。
伊織は追わなかった。
蓮も呼び止めなかった。
扉が静かに閉まると、個室は痛いほど静かになった。




