ロボットが覚えた優しさ
返事を待つ、ということか。
蓮は鏡の中で眉を上げ、何も言わなかった。
真紀が去ってしばらくすると、別の女性スタッフが入ってきた。
「お待たせしました。メイクを始めます」
蓮は頷き、椅子に深く腰かけた。
彼女が何も言わなくても、真紀と無関係ではないことくらいは想像できた。蓮は目を閉じ、顔にスポンジが軽く当たる感触を受けながら、今日の台詞を頭の中で確認していく。
半時間ほどして、ようやく声がかかった。
「できました」
蓮が目を開けると、鏡の中には思っていたほど機械的ではない自分が映っていた。顔全体を銀色に塗るようなメイクではない。目尻、唇の端、首筋に、人工皮膚ロボットの接続痕のような細いラインが入っている。
人間に限りなく近いが、よく見れば人間ではない。
ヴェドという役には、ちょうどよかった。
蓮は礼を言い、撮影場へ向かった。
「第一カット、第一シーン」
カチンコが鳴る。
蓮は天羽莉央に手を引かれ、小さな路地から未来都市の通りへ出ていった。ヴェドは人間の動作データを入れられたばかりで、歩き方すらぎこちない。
彼は遅い老人のような速度で、莉央の後ろをついていく。
「ヴェド、早く」
莉央が小さな手で彼を引いた。
「私のまねをして。右手と右足を一緒に出さないで」
蓮はゆっくり彼女を見下ろした。手を伸ばしかけ、何かを間違えたようにおずおずと引っ込める。
「小さな主人。今日はどこへ行くのですか」
「パパを迎えに行くの。今日は外でお仕事があるんだって。雨が降ってきたから、迎えに行くの」
蓮は首を傾けた。
父親、という言葉がよくわからない機械のように。
莉央は少し困ったように、しかし年上ぶった口調で説明する。
「パパっていうのは、あなたを作った人のこと」
少し考え、さらに付け足した。
「でも、全部のパパがそうってわけじゃないよ。私のパパだけ」
蓮はゆっくり頷き、理解したという顔をする。
「ああ。主人のことですね」
「だめ」
莉央はすぐに訂正した。
「外では主人って言っちゃだめ。林さんって呼ぶの」
「カット」
遠藤の声が落ちた。
蓮と莉央は同時に監督のほうを見る。初めての本番で、遠藤が何を求めているのか、蓮にはまだ完全にはつかめていない。
幸い、遠藤の目にははっきりとした満足があった。
「悪くない」
彼は二人を呼び寄せ、脚本を見ながら細かい修正点を伝えた。テンポ、視線、手の動かし方。特に蓮には、機械が人間を学んでいる途中の「遅れ」を残すように、と念を押した。
午前中いっぱい、撮影は順調に進んだ。
昼近くになってようやく休憩に入り、蓮は莉央が何人ものスタッフに囲まれながら休憩室へ向かう姿を見た。
あの年齢で、彼女は多くの期待を背負っている。
母親の名前もある。周囲が大切にするのは当然だが、それが彼女にとって本当に楽なのかは、蓮にはわからなかった。
「蓮さん」
右側から奏介が歩いてきた。
蓮は笑って彼を見る。
「午前中、待っていなくてもよかったのに」
「どうせ戻ってもすることがなかったですから」
奏介は軽く笑った。
「どこかで飯にします? あ、そうだ。外に蓮さんのファンが来てるみたいですよ」
蓮は本気で驚いた。
「僕のファンが? 冗談だろ」
「疑うなら見に行きます?」
蓮は半信半疑のまま、奏介について入口へ向かった。だが正門に近づく前に、外の騒がしさが耳に届く。
「まさか」
蓮は額を押さえた。
「ここは撮影所だぞ。どうしてこんなに人がいるんだ」
「今日は近くで朝比奈旭のファンイベントがあるんです。そのファンの中に蓮さん推しもいるんでしょう。ネットで撮影場所の話が流れたらしくて、一気に広まったみたいです」
奏介はおかしそうに笑う。
「今のファンって、監督より情報が早いですよ」
蓮は本当に頭が痛くなった。
公式のイベントならまだわかる。けれど、これは撮影の合間だ。出るたびに姿勢を整え、笑顔を作るのはさすがに疲れる。
「やめよう」
蓮はすぐに踵を返した。
「僕は戻る。奏介君、悪いけど何か食べ物を買ってきてくれないか」
「わかりました」
奏介が笑って出ていくのを見送ってから、蓮はさっきのセットへ戻った。休憩時間のため、そこにはほとんど人がいない。
木陰のベンチに座り、水を飲み、脚本を開く。
数行も読まないうちに、誰かの声がした。
「佐伯さん」
蓮が顔を上げると、スタッフらしき男が飯盒を持って立っていた。背中から光を受けており、顔はよく見えない。
「何かありましたか?」
男は軽く咳払いし、飯盒を蓮の前へ置いた。
「お食事です」
それから、まるで手品のように飲み物まで取り出して置く。終わると、すぐに背を向けた。
「待ってください」
蓮が呼び止めると、男は少し硬くなった。
「ほかに何かご用ですか」
やっぱり変だ。
蓮はそう思ったが、結局深くは聞かなかった。ただ軽く笑う。
「いえ。お礼を言いたかっただけです」
「次からは、わざわざ持ってこなくて大丈夫です。友人に頼んでありますから」
男は一瞬止まった。
蓮を見る目に、なぜか少し不満が浮かんだように見えた。
「これも、そのご友人からです」




