清司に似た名の男
「こんばんは」
少し気まずくなり、蓮は先に挨拶した。
「こんばんは」
男も柔らかく笑った。
「朝倉周司といいます」
周司。
司。
蓮の胸が、わずかに跳ねた。
清司。
すぐに、自分の連想が馬鹿げていると思った。あの妖狐はもう去った。似た響きの名前に反応するほど、自分はまだ彼のことを引きずっているらしい。
「佐伯蓮です」
蓮は手を差し出し、軽く握ってすぐ離した。
「朝倉さんも、この近くに住んでいるんですか?」
周司はその質問にすぐ答えなかった。
彼はゆっくりと右側を見た。蓮もつられてそちらを見るが、暗がりには何もない。
「ええ」
しばらくして、周司は答えた。
「人を待っているんです」
「誰を?」
言ってから、蓮は少し後悔した。会ったばかりの相手に、踏み込みすぎた質問だったかもしれない。
周司は口を開いたまま、少し長く黙った。
「とても大切な友人を」
その声は小さかった。
そして彼は、もうその話を続ける気がないように笑った。
「今度、食事をご馳走します。近くで食堂をやっているので」
それだけ言うと、周司は階段を下りていった。
「また」
蓮が返事をする前に、その背中は夜の中へ消えた。
「変わった人だな」
蓮は小さく呟き、リュックを持って部屋へ入った。室内は真っ暗で、スイッチを入れると白い灯りが一気に広がる。
肩のバッグを投げるように置き、灰色のリュックだけを寝室へ持っていった。中身を確認する気力もなく、そのままベッドの横へ置き、倒れるように眠った。
翌朝、目を覚ました蓮は、昨夜風呂にも入らず寝たことを思い出してしばらく固まった。
起き上がってから、昨夜ドアの前で知らない男に声をかけたことも思い出す。
しかも、名前に「司」が入っているだけで、清司に似ているなどと思ってしまった。
恥ずかしさで、布団に顔を埋めたくなる。
「もういい」
昨日のことは昨日のことだ。
蓮は気持ちを切り替え、身支度を整えて外へ出た。近くで朝食を済ませようと、あまり考えずに右の通りを歩いていく。
「佐伯さん!」
背後から声がした。
蓮は一瞬、またしても清司の声だと思ってしまった。
振り返ると、朝倉周司がこちらへ歩いてきている。彼は蓮を見つけると、嬉しそうに手を振った。
「あ、朝倉さん」
蓮はようやく相手を思い出した。
「朝食はもう?」
「まだです」
「じゃあ、うちへどうぞ。すぐ近くです」
本来なら断るべきだった。
出会って一日も経っていない相手だ。しかも最近は自分を狙った週刊誌や張り込み記者もまだ完全に消えたわけではない。
けれど、口から出た言葉は違った。
「じゃあ、お願いします」
周司は嬉しそうに笑い、通りの向かいを指した。
「すぐそこです」
蓮はその指先を追った。
そこには小さな食堂があった。
看板には「朝待ち食堂」と書かれている。
どうしてそんな名前なのか、少し気になった。
店内は豪華ではないが、清潔で落ち着いていた。木のテーブル、古い吊り灯、窓辺の観葉植物。どれも静かな生活感があり、妙に居心地がいい。
「好きな席へどうぞ。すぐ用意します。食べたいものがあれば、店の者に言ってください」
周司はそう言って厨房へ向かった。
蓮は窓際の席に座り、外を行き交う人々を眺めた。数分後、食欲をそそる香りが漂ってくる。
周司が盆を持って戻ってきた。
目玉焼き、肉入りの粥、小さな漬物。
特別な料理ではない。それなのに、香りは驚くほどよかった。
蓮は礼を言って食べ始めた。気づけば、あっという間に完食していた。
周司に挨拶してから出ようと思ったが、店内を見回しても彼の姿は見当たらない。仕方なくメニューの値段どおりに支払い、蓮はひとり店を出た。
撮影所に着いたころには、スタッフの大半がすでに揃っていた。
「蓮さん、やっと来ましたね」
声をかけてきた奏介は、化粧台の前に座っていた。役柄のせいか、今日のメイクは普段よりずっと艶やかだ。目尻は鋭く引かれ、唇の色も濃い。
蓮は少し笑いながら、隣の席に座った。
そのとき、背後の扉が開いた。
鏡の中に映った人物を見て、蓮はわずかに固まった。
「姉さん、また俺を見に来たの?」
奏介も鏡越しに相手を見た。
高橋真紀は微笑んだだけで、返事をしなかった。彼女はゆっくりと歩いてきて、最後に蓮の背後で足を止めた。
鏡の中で、真紀が少し身を屈める。
蓮は一瞬、本気で距離を取りたくなった。
できれば五メートルは離れていたい。気を抜いた瞬間、何かを突きつけられそうな相手だ。
「毎日あの子ばかり見ていたら、さすがに飽きるわ」
真紀はそう言った。
蓮は曖昧に笑うだけで、返事を避けた。
「この前の話、考えてくれた?」
この前の話。
また移籍のことか。
「答えは、高橋さんが一番わかっているんじゃありませんか」
「佐伯君」
真紀の声は柔らかい。けれど、その柔らかさの下には圧がある。
「うちの事務所は、本気であなたを迎えたいの。才能に投資することを惜しまない。今いる場所が、あなたにもっといい未来を用意してくれると思う?」
蓮は黙った。
真紀の言葉はいつも正確に痛いところを突いてくる。今の事務所には友人が何人かいるが、それ以外に強い未練があるわけではない。
「高橋さん、困らせないでください」
真紀は笑った。
そして、蓮の肩に手を置き、指先で衣服の皺を整える。
「友人のことを気にしているのはわかっているわ。あなたが頷くなら、その人たちにも安定した仕事を用意する。真面目に働く気があるなら、うちで居場所を作れるようにする」
蓮は鏡の中の真紀を見た。
本当に、何を考えているのだろう。
条件が出るたびに、こちらの不安を的確に塞いでくる。彼女から逃げ切るのは、思っていたより難しそうだった。
「高橋さん、まだですか? 次は佐伯さんのメイクです」
外からヘアメイクの声がした。
蓮はそこで初めて、真紀がメイク時間を借りてここへ来ていたのだと気づいた。
「高橋さん」
蓮は口を開いた。
「条件は、きちんと考えます」
真紀は目を細めた。満足してはいない顔だったが、すぐにいつもの笑みへ戻る。
「奏介とも仲がいいでしょう。来ても、環境に戸惑うことはないはずよ」
彼女はそう言って、部屋を出ていった。




