「朝待ち食堂」の周司
前に撮影所を出るとき、遠藤輝彦は蓮にひとつだけ言葉を残していた。
「機械のふりをするんじゃない。人間のふりをするんだ」
蓮は家に戻ってから、その言葉を何度も頭の中で反芻した。ロボットのヴェドは、ただ冷たく無機質な道具ではない。歩き方を覚え、呼び名を覚え、嘘と優しさの違いを知り、最後には誰かを自分の核心に置く存在だった。
数日後、蓮はふたたび『浮遊面』の撮影所を訪れた。未来都市のオープンセットはほとんど完成しており、半透明のライト、研究施設の入口、子ども部屋のセットまで、前に来たときよりずっと形になっていた。
遠藤はその前に立ち、蓮と高橋奏介へ簡単に予定を説明した。
「正式な撮影は一週間後になると思う。ただ、少しずれ込むかもしれない。決まったら連絡する」
蓮と奏介は顔を見合わせた。
セットはもう十分に撮れそうだった。遠藤が撮影開始を急いでいると聞いていたこともあり、二人とも理由が気になった。
遠藤はその表情を読んだように、軽く首を振った。
「高台、水辺、アクションの導線に安全確認が残っている。見た目だけきれいでも意味がない。事故が起きたら終わりだからな。この数日は脚本を読み込んで、役に慣れておいてくれ」
言い終えると、遠藤は蓮を見た。
「特に佐伯君」
急に指名され、蓮は少しだけ苦笑した。
「わかりました」
「それから、最初の撮影は静岡の外景地へ行くかもしれない。詳細はあとで知らせる」
いきなり外景地とは、なかなか慌ただしい。奏介は苦笑しながら肩をすくめた。長野での撮影が終わったばかりだというのに、また移動の多い現場が始まるらしい。
「そういえば、蓮さん」
奏介がふと思い出したように身を寄せてきた。
「今回、俺が何の役か知ってます?」
蓮は首を横に振った。
「まだ聞いていない。どんな役?」
「あなたたちの敵です」
奏介はどこか嬉しそうだった。
蓮は思わず笑ってしまった。長野の映画では、蓮が危うい精神状態の人物を演じ、奏介は彼を止めようとする善良な主人公だった。今回はどうやら、少し立場が入れ替わるらしい。
蓮が演じるヴェドは、主人公の父親が完成させた最高傑作だった。反派側はその技術を奪おうとし、父親を支配できないとわかると、ヴェドそのものを解体し、解析し、同じものを量産しようとする。
筋書きだけを見れば、珍しい設定ではない。だが脚本の中盤以降に用意された反転と、終盤の選択は、蓮にとって思った以上に印象深かった。
「何を考えてるんですか?」
奏介の声で、蓮は我に返った。
「何でもない。結末のことを考えていただけ」
「もう最後まで読んだんですか?」
奏介が目を丸くする。
「うん。奏介君はまだ?」
今度は奏介が気まずそうに鼻の頭をかいた。
「俺はまだ最初のほうだけです。最近やっと少し休めたところで」
彼は少し言い訳するように続けた。
「姉さんが、遠藤監督の作品なら疑わなくていいって言ってたんです。姉さんがいいって言う企画は、だいたい外れませんから」
蓮は小さく頷いた。
奏介は、かなり真紀の言うことを信じている。自由を削られているようにも見えるが、そのおかげで彼が大きな遠回りをせずに今の位置へ来たのも事実だ。そこに蓮が口を挟む余地はなかった。
「佐伯さん! 佐伯さん!」
小道の先から、スタッフらしい男が小走りで近づいてきた。作業着を着て、帽子を深くかぶり、さらに大きなサングラスまでしているため、顔はほとんどわからない。
声にどこか聞き覚えがあった。
蓮がそう思った瞬間、男は持っていた黒い包みを蓮の胸元へ押しつけ、すぐに踵を返した。
「待ってください」
蓮は反射的に声をかけた。
「誰からですか?」
男は曲がり角の手前でぴたりと止まった。振り返った声は、なぜか不自然なほど大きい。
「ファンの方からお預かりしました」
そう言い残して、男は角の向こうへ消えた。
蓮は追いかけかけて、手の中の包みに視線を落とした。黒い包みは妙にきれいで、通常の宅配や事務所経由の贈り物には見えない。
奏介が横から覗き込んだ。
「ファンからのプレゼントですか? 何か変なんですか?」
蓮は少し考えた。
奏介を疑っているわけではない。けれど彼の後ろには高橋真紀がいる。今は自分のことを、簡単に話せる状況ではなかった。
「何でもない。どのファンがくれたのか聞きたかっただけ」
「熱心なファンなんでしょう。きっと蓮さんのことが大好きな女の子ですよ。害はないと思いますけど」
奏介は軽く笑った。
蓮も笑って見せたが、心は少しも晴れなかった。
ファンからの贈り物なら、宛名、送り状、事務所の受け取り記録、そのどれかがあるはずだ。けれどこの包みは、あまりにも手がかりがなさすぎた。
「そうだね。先に戻ろう」
その日は正式な撮影こそなかったが、蓮は一日中セットを回り、共演者にも何人か挨拶した。高橋真紀とも顔を合わせたが、今回は向こうから声をかけてくることはなかった。
ただ、目が合った瞬間の、あの少しだけ不満げな笑みは見逃せなかった。
蓮が移籍の誘いを断ったことは、やはり彼女の機嫌を損ねているのだろう。
夜、撮影チームで食事会が開かれたが、蓮は無難な理由をつけて断った。現場との交流が大切なのは理解している。それでも、高村の件以来、酒席や食事会というものに本能的な警戒心があった。
タクシーで自宅近くまで戻り、マンションの入口へ向かうと、階段の前で足が止まった。
自宅のドアの前に、灰色のリュックが置かれていた。
薄暗い廊下の照明が、リュックの輪郭をぼんやり照らしている。
また、妙な贈り物か。
蓮はしばらく見つめてから、しゃがみ込んでファスナーを開けた。中を確認した瞬間、英挺な眉がわずかに上がる。
また食べ物だった。
しかも、やけに好みに合っている。
蓮は思わず低く笑った。
次の瞬間、理由のない直感に引かれ、ふいに振り返った。
少し離れた街灯の下に、ひとりの男が立っていた。
背中から光を受けているせいで、顔はよく見えない。けれどその姿を見た瞬間、蓮の胸に奇妙な感覚が走った。
「ねえ」
自分でもどうかしていると思いながら、蓮はその影へ声をかけていた。
向こうは少しだけ動きを止めた。やがて蓮のほうを向き、ゆっくり歩いてくる。
「僕を呼びましたか?」
近づいてきて、蓮は初めてその顔を見た。
清潔感のある、整った顔立ちの男だった。眉目は柔らかく、雰囲気も穏やかだ。蓮は一瞬、何を言えばいいのかわからなくなった。




