深い誤解
伊織はパンを一口かじりながら、昨夜のことを慎重に思い出していた。
蓮の酒癖は、多少知っている。飲みすぎたあとの出来事は、八割方覚えていないだろう。
昨日の午後、伊織は仕事に追われていた。蓮からの電話のあと、琴音のことを考えてぼんやりし、部署の責任者に叱られた。その人は前から伊織を気に入っていない。自分のほうが役職は上なのに、給料が伊織より良いとは限らないことに不満を持っていた。
ようやく仕事を片づけると、今度は琴音から電話が来た。
出た瞬間から責められた。どうして二人のことを蓮に話したのか、と。
伊織も疲れていた。問い詰められて、つい強い言い方をしてしまい、そのまま電話を切った。
自分にも非があることはわかっている。
けれど最初に信じなかったのは琴音だ。説明しても、彼女は聞こうとしなかった。最後には、伊織も低姿勢で説明する気をなくしてしまった。
それでも胸の中にたまったものは消えなかった。
彼はバーで少し飲み、あの場所で酔い潰れるのは危険だと思い、結局ビールを買って蓮の家へ来た。
少なくともここなら、もっと面倒なことにはならない。
今思えば、昨夜は酒の勢いで琴音とのことを口にしてしまったのだろう。
それから、蓮が言っていた「彼」という存在も、ぼんやり聞いた気がする。
伊織は蓮を見上げた。
蓮はいつもの落ち着いた顔に戻り、『浮遊面』の台本をめくっている。普通なら宿酔いの朝くらい休みたくなるものだが、彼はすでに台本に戻っていた。
伊織は昨夜蓮が言った相手のことを聞くべきか迷った。
それから、半分眠った状態で見た白い背中を思い出す。
聞くべきだろうか。
やめておこう。
昨夜来たとき、部屋には蓮しかいなかった。あの背中は、酔いが見せた幻だろう。
「それで」
蓮が台本を閉じ、彼を見る。
「君と琴音は、何があったの?」
「昨日電話で彼女に言われて、わけがわからなくなった」
あなたたち自身に聞け、とは何なのか。
伊織は口を開く。
それでも、まだどう言えばいいかわからない。
「蓮、前にゴシップ記者に君の友だちがここに出入りしているところを撮られて、同居疑惑になった件を覚えているよね?」
蓮は頷いた。
その件はまだ完全に下火になっていない。忘れるはずがない。
幸い、律と朔はもう帰った。ゴシップ記者がこれ以上掘ろうとしても、実質的なものは出てこないだろう。時間が経ち、新しい仕事の話題が出れば、古い噂は少しずつ埋もれていくはずだ。
「それと君たちに何の関係があるの?」
言った瞬間、蓮は伊織の顔に明らかな気まずさが浮かぶのを見た。
「琴音が、誰から聞いたのか知らないけど」
伊織は歯を食いしばり、結局一気に言った。
「君と同居していた相手は、俺だと思い込んでいる」
蓮の表情が一瞬真っ白になった。
彼は伊織を見たまま、驚くべきか笑うべきか判断できない。
つまり、琴音が伊織と別れようとしているのは、蓮と伊織がそういう関係だと誤解しているからなのか。
「説明しなかったの?」
「説明しないわけないだろ」
伊織は苦笑する。
「でも、なぜか信じてくれない」
蓮は何か言おうとして、言葉に詰まった。
「誰から聞いたのか、ちゃんと聞いた?」
伊織は首を横に振った。
恋人にそこまで疑われれば、当然納得できない。だが何度聞いても、琴音は「そんなの見ればわかる」「あなたたちは絶対おかしい」と繰り返すだけだった。
「最近、彼女が接触していた人は調べた」
伊織は言う。
「普段はスタイリストについて雑務をしているだけで、特別怪しい人は見当たらない」
蓮は頷いた。
だいたい流れはわかった。
会社の中では、蓮と「謎の男性の同居」が噂になっていた。伊織は頻繁に蓮の家へ出入りし、送り迎えや食事の差し入れ、仕事の処理をしていた。噂が人づてに歪み、琴音の耳には最悪の形で届いたのだろう。
「こうしよう」
蓮はスマホを手に取った。
「何にせよ、直接会って説明したほうがいい」
「今は君から電話しても出ないかもしれない。僕から先にメッセージを送って、外のカフェで会えないか聞いてみる」
伊織は頷いた。
「頼む」
「気にしないで」
蓮はできるだけやわらかい文面でメッセージを打った。
都合がよければ、公開されたカフェで一度会って話したい。無理に誰かをすぐ許せと言うつもりはない。ただ誤解が広がり続けるのはよくないと思っている。
送信しても、すぐには返事が来なかった。
蓮は時間を見た。
「午後は『浮遊面』のセットを見に行く」
「セットはほぼできているらしい。役の感覚を掴みたいし、劇中の「小さな主人」にも会っておきたい」
伊織はもういつもの調子を取り戻していた。
昨夜酒を飲み、言うべきことも言った。ようやく頭が少し動くようになっている。
「わかった。行ってきて」
「何かあったらすぐ電話して」
伊織を見送ったあと、蓮はリビングへ戻った。
台本はまだ読み終えていない。
午後に現場へ行くなら、事前に役の状態をもう一度整理しておく必要があった。
着替えを済ませ、タクシーを呼び、東京近郊にある大型撮影スタジオへ向かう。
前日に遠藤監督へ連絡したとき、セットはまだ一部だけだと聞いていた。だが到着してみると、主要な部分はほとんど完成していた。
「蓮!」
遠くから誰かが手を振っている。
蓮は笑い、そちらへ歩いた。
「奏介君、久しぶり」
高橋奏介の目が明るくなった。
「うわ、ロボット役が蓮だって聞いたけど、本当だったんだ」
隣にいた中年の男が彼を睨む。
「おい。俺が嘘をつくと思っていたのか?」
「違います、違います」
奏介はすぐに笑った。
「遠藤監督の言うことはもちろん信じています」
遠藤監督と呼ばれた男は、慣れた様子で白い目を向け、それから蓮へ視線を移した。
「遠藤監督」
蓮は礼儀正しく会釈する。
「うん。君が佐伯蓮だね」
男は手を差し出した。
「前に電話で話したけれど、直接会うのは初めてだな。遠藤輝彦だ」
「よろしくお願いします」
蓮は握手する。
「遠藤監督の作品は評判がいいと伺っています。今回ご一緒できるのを楽しみにしていました」
遠藤は頷いた。
こういう挨拶は聞き飽きている。
だが目の前の若い俳優には、よくいる若手とは違う落ち着きがあった。年のわりに、早く自分を証明したいという荒々しさが見えない。隠しているだけなのか、本当に沈着なのか。
できれば後者であってほしい。
「黒沢航とは昔からの知り合いでね」
遠藤が言った。
「彼が長野で撮った君の芝居を見せてくれなかったら、こんなに早く役者を決められなかったかもしれない」




