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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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酒癖


 扉の外に立っていた伊織は、両手にビールを二ケース抱えていた。


 スーツは少し歪み、襟元も乱れている。普段、予定をきっちり整理している彼とは別人のように、全身から疲れがにじんでいた。


 いったい今日どこで何をしてきたのか。


 蓮は台本を持ったまま彼を見たが、深くは聞かなかった。


 ただ身体を横へずらす。


「入って」


 伊織は頷き、何も言わずに家へ入った。


 扉を閉めたあと、蓮は彼の後についてリビングへ向かった。伊織はソファに座るなり、ビールを開け、一本を黙って飲み干した。


 蓮は向かいのソファに座った。


 重圧が強いとき、何かで発散したくなる気持ちはわかる。彼はそこまで冷たくない。今は「琴音と何があった」と問い詰めるより、少し酒を飲ませて落ち着かせたほうがいいのかもしれない。


 だが、事態はすぐに制御を失った。


 最初は、伊織だけが飲んでいた。


 それがいつの間にか、二人で飲んでいた。


「蓮も飲めよ!」


「飲む、飲むから」


 蓮はビール缶を手に、酔いが回って明らかに口数が増えていた。


「今日買ってきた量、少ないよ。次はもっと持ってきて」


 酔っぱらい二人がソファに座り、互いに何を話しているのかもよくわからないまま言葉を投げ合っている。


「なあ、伊織」


 蓮は目を細めて彼を見た。


「君、本当に琴音とどうなってるの? まさか本当に別れた?」


 伊織は大きく手を振った。


「あの人、俺が何を言っても聞かないんだよ」


「勝手にあれこれ想像して、もう本当に面倒で」


「手元に仕事が山ほどあるのに、毎日説明していられるかよ」


 蓮は彼を睨み、手で軽く押した。


「そんな言い方しない」


「一応、君の恋人でしょう」


「恋人を慰めるのも面倒なら、何がしたいんだよ」


「違う、蓮、違うんだ」


 伊織の声が少し大きくなる。


「あの子、俺たちが同居してるんじゃないかって疑ってるんだ」


「君の前の同居報道、相手は俺なんじゃないかって」


 蓮は固まった。


 次の瞬間、「ぶっ」と吹き出しそうになり、あまりに荒唐無稽で笑ってしまう。


「それはないでしょう」


「じゃあ、ちゃんと説明しなかったの?」


「説明したよ。聞いてくれればな!」


 伊織はどんどん委屈そうになる。


「あの時期、俺に説明する余裕がどこにあったんだよ。あれもこれも全部降ってきて」


 彼はテーブルの上の最後のビールを取り、仰いで飲み干した。


 蓮も話を聞きながら、確かに荒唐無稽だと思った。


「それは……」


 彼は空き缶を揺らした。


「あとで僕が琴音に話すよ」


「仕事のことも、ちゃんと理解し合わないと」


「君も、もう少し彼女に根気よくしなきゃ」


 そこまで言って、蓮はふっと話題を変えた。


「でも、君は僕よりずっといい」


 彼は俯いて笑った。


「僕なんて、あいつが戻ってくるかどうかもわからない」


「腹が立つ」


「行くなら一言くらい言えばいいのに。僕だけ待たされて」


「今度会ったら、絶対に殴ってやる」


 実際には、会えるかどうかもわからない。


 伊織はぼんやりと蓮を見た。


「蓮、好きな人ができたの?」


 蓮は彼を一瞥し、乱暴にビールを一口飲んで、その話題を避けた。


「伊織、今夜飲みすぎ」


 伊織はへらっと笑う。


「蓮だって飲みすぎだろ」


「一緒にしないで」


 蓮は真顔で言った。


「僕は君に付き合って飲んでるだけ」


「里沙先生に今夜君と飲んでたって知られたら、明日にはクビにされるよ」


 里沙先生は、蓮が会社に入ったばかりのころの身体づくりの講師だった。中年に差しかかっていて独身、基礎姿勢、舞台での見せ方、ダンスの基礎まで担当していた。当時は蓮だけでなく多くの若い練習生も教えており、よく「蓮は一番のお気に入り」と言っていた。


 伊織はへらへら笑った。


「じゃあ、里沙先生には言わない」


「明日は、バーで踊ってきたって言おう」


「酒は飲んでません、って」


 それを聞いて、蓮も笑った。


 昔、練習室の若い子たちは、友だちと出かけたいけれど酒は飲めないとき、よく「バーで踊るだけ」と言って里沙先生をごまかしていた。彼女は酒と煙草には厳しかったが、人前で身体を動かし、緊張をほぐすことには前向きだった。


「いいね……」


 蓮の声はだんだん低くなる。


「明日は……バーで踊ってたって言おう」


 最後の数文字は、ほとんど聞き取れなかった。


 彼はソファにもたれ、まぶたを重く閉じる。指から力が抜け、持っていたビール缶がソファの縁から落ち、カーペットの上を転がった。


「まったく」


 客間に、ひどく小さなため息が落ちた。


 蓮はもう眠っていて、当然気づかない。


 別のソファに倒れていた伊織だけが、半分眠ったまま目を少し開いた。


 白い影が見えた気がした。


 見知らぬ白い影が、ソファに沈んだ蓮を抱き上げている。


 その動作は驚くほどやわらかかった。


 まるで、壊れやすいものを扱うように。


 伊織は目を凝らそうとした。


 だが眠気がすぐに襲いかかり、抵抗する間もなく再び眠りに落ちた。


 翌朝、蓮はひどい頭痛で目を覚ました。


 ベッドの上でしばらくぼんやりしてから、ようやく洗面所へ向かう。鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。


 年を取ったのだろうか。


 徹夜をしただけで、翌日十年分くらい命が削れたような顔になる。


 冷たい水で顔を洗い、昨夜のことを思い出そうとする。


 家で台本を読んでいた。伊織が酒を持ってきた。伊織が荒れていて飲んでいた。そのうち、なぜか自分も飲んでいた。


 そして目が覚めたら、ベッドにいた。


 おそらく伊織が運んでくれたのだろう。


 では、伊織は?


 蓮は顔を拭き、部屋を出た。


 リビングでは、伊織がまだソファで眠っていた。


 蓮は彼を起こさず、客室から毛布を持ってきてかける。それからキッチンへ入った。


 料理は得意ではない。だが簡単な朝食くらいなら作れる。


 卵を二つ焼き、ベーコンを数枚焼いて、パンと牛乳を温めた。リビングへ持っていくころには、伊織も目を覚ましていた。


 彼はソファに座ったまま蓮を見つめている。


 蓮が朝食をテーブルに置くと、伊織の腹が情けなく鳴った。


「ありがとう」


 蓮は首を横に振る。


「礼はいらない」


「先に食べて」


 そして続ける。


「食べ終わったら、琴音と何があったか話して」


 伊織の身体が固まった。


 初日は逃げられても、十五日は逃げられない。


 彼はうなだれて、低く返事をした。


「……うん」

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