原因
「伊織、君たち別れたの?」
電話が繋がった瞬間、伊織は蓮の問いを聞いた。
予感はしていた。
それでも実際に聞くと、何をどう答えればいいのかわからない。
「蓮……」
声には、少しだけ哀願が混じっていた。
今、本当にどう説明すればいいかわからなかった。
まさか「別れてない。琴音が一方的に別れたいと言っていて、僕はまだ同意していない」と言えるはずもない。
蓮は彼に迷う時間を与えなかった。
「聞いている」
「君と琴音に、何があった?」
伊織は口を開いた。
だが、蓮相手にはどうしても言いにくい。
「蓮、頼むから今は詰めないで」
「わかった。詰めない」
蓮の声は冷たかった。
「だから説明して」
伊織は長く黙った。
「今夜、君のところへ行って話す。それでいい?」
これ以上聞いても無駄だとわかり、蓮は苛立ちを押さえて答えた。
「わかった」
電話を切ったあと、蓮はカフェの席で胸のつかえを抱えたまま座っていた。
この件が挟まってしまい、台本を自分で取りに行く気分でもなくなった。彼は劇組の知り合いに連絡し、遠藤監督のところから『浮遊面』の台本を自宅の前へ届けてもらうよう頼んだ。
時間はまだ早い。
けれど家に帰る気にもなれない。
蓮は少し考え、タクシーで図書館へ向かった。
ここへ来るのは久しぶりだった。
見慣れた書架の間に入ると、静けさが心を少しだけ落ち着かせる。最近特に惹かれる新刊は見当たらなかったが、森崎悠真の作品は何冊も並んでいた。
その中には『沈溺・下巻』もある。
蓮は一目見ただけで、すぐに視線を逸らした。
悠真から届いたあのメッセージを思い出すと、今でも背筋が冷える。
あの人は、高村と大差なかった。
違うのは、悠真の考えが現実になる前に、早乙女律の数言で潰されたということだけだ。
正直なところ、あのときの蓮には警察や弁護士で処理する発想がまだなかった。騒ぎを大きくすればするほど、彼を陥れたい人間に材料を与えることになる。平和な時代、人は他人の騒ぎを見るのが好きだ。暇つぶしになるなら、当事者がどうなろうと気にしない。
だから、律が警察沙汰にするとはっきり言ったとき、蓮は少しだけ感心した。
今ごろ律は朔と帰り、元の生活に戻っているのだろう。
そう考えると、また清司のことが浮かんだ。
蓮は書架の前で少し沈んでから、適当な本を手に取った。
図書館を出たあと、彼はまた雰囲気のいいカフェに入り、そこで午後を過ごした。
コーヒーを二杯とケーキをひとつ食べ終えるころには、もう夕方に近かった。
タクシーでマンションへ戻ると、玄関前に二つのものが置かれていた。
ひとつは黄土色の封筒。
それは見覚えがある。おそらく劇組の知り合いが届けてくれた『浮遊面』の台本だ。
もうひとつは、黒い布袋だった。
何だ、これは。
蓮は玄関前で二分ほど見つめた。
最後にため息をつく。
彼はまず足先で布袋を軽くつついた。変な動きがないことを確認してから、自分が神経質になりすぎていることに少し呆れる。
かがんで開けると、中には食べ物が入っていた。
さらに意外だったのは、それが蓮がずっと前に好きだったお菓子ばかりだったことだ。
役者になってから、体型管理のため、そうした「ジャンクなおやつ」はほとんど断っていた。
蓮は布袋を持ち、理由のない寒気を覚えた。
どうして、こんなことまで知っている人間がいるのか。
彼は布袋と図書館で買った本をソファに置き、台本を持って部屋へ入った。
黄土色の封筒を開ける。
表紙には、数文字だけが記されていた。
『浮遊面』
これは、SF色の強い映画だった。
蓮が演じるのは、「小さな主人」を探すため、人間に扮して現世へ現れたロボットである。単に冷たい機械ではない。人間のように話し、暮らすことを学び、その上で少しずつ「人ではない」本質が見えてくる役だった。
ロボットを学ぶ。
さらに、自分をロボットだと思って、人間を学ぶ。
設定を読んだ瞬間、蓮はこの役に強く惹かれた。
自分でも、それが性分なのかどうかはわからない。
彼はいつも、未知で、挑戦しがいのある役に惹かれる。前の作品では、愛する人のために壊れていく精神不安定な男を演じた。今回は、人間の感情を理解しようとするロボットを演じる。
衝動的にこの作品を受けたことを後悔するかもしれないと思っていた。
けれど今は、その衝動が正しかったと思える。
蓮はベッドの背にもたれ、台本を読み始めた。
読み進めるほどに、没頭していく。
スマホが鳴るまで、彼は不機嫌そうに目だけを上げた。
着信は三浦伊織。
「もしもし?」
「どうしたの?」
電話に出たとき、蓮はまだ今夜伊織と会う約束をしていたことを忘れていた。
電話の向こうで伊織が言う。
「蓮、もう着いたよ」
蓮は数秒固まり、それからようやく今日の件を思い出した。
ベッドから降り、玄関へ向かい、伊織のために扉を開けた。




