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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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別れた?


「必要なら、僕から連絡してみようか?」


 蓮は、伊織がすぐに頷くと思っていた。


 なぜなら、彼の目にほんの一瞬、期待が浮かんだのを見たからだ。


 けれど蓮の視線の前で、伊織はなぜか首を横に振った。


「いや……いいと思う」


 蓮の眉がさらに寄る。


「どうしたの?」


 伊織らしくない。


 彼と琴音は派手ではないが安定していた。蓮は他人ではない。少なくとも、蓮の前でここまで隠す必要はなかった。


 それとも、誰にも言わないまま別れたのか。


 蓮の疑問が濃くなる。


 伊織はしばらく迷い、最後には心配のほうに負けたようだった。


「……うん。お願い、蓮」


 一息で言う。


「琴音に連絡してくれないかな。できれば、会って話したい」


 蓮は、二人の関係に本当に問題が起きていると確信した。


 彼は伊織を睨む。


「君も大概だね」


「恋人がいなくなりそうなのに、何をそんなに忙しそうにしてるの」


 伊織は苦笑した。


 焦っていて、でもためらっていて、最後には決心したように口を開く。


「蓮……」


「もし琴音が変なことを言っても、怒らないでやってほしい」


 蓮はますますわからなくなる。


「どういう意味?」


 伊織は首を振った。


「僕の口からは言えない」


「先に、彼女の代わりに謝っておく」


「それでも、連絡してくれると助かる」


 蓮は伊織の苦しそうな顔を見た。


 冗談ではなさそうだ。


 伊織とはそれなりの付き合いがある。必要以上に疑う理由はなかった。


「わかった」


 蓮が言う。


「言いたくないなら、無理には聞かない」


「ありがとう、蓮」


「僕は台本を取りに行く」


「君は会社へ戻って」


 伊織は頷き、蓮の判断を拒まなかった。


 彼が先にカフェを出る。


 蓮はそのまま席に残り、コーヒーとケーキを追加で頼んだ。スマホを取り出して連絡先を開く。


 すぐに、琴音の番号が見つかった。


 伊織の言葉が頭から離れない。


 変なことを言うかもしれない。


 代わりに謝っておく。


 琴音は何かを誤解しているのか。


 それとも、蓮に対して何か後ろめたいことをしたのか。


 蓮は、誰かが一度間違えたからといって、永遠に許さない人間ではない。


 考えても答えが出ず、彼はそのまま電話をかけた。


「おかけになった電話は、現在通話中です……」


 蓮はスマホを耳から離し、時間を見た。


 十一時半。


 会社はそろそろ昼休みに入る時間だ。琴音が忙しいとしても、電話にまったく出られないほどではないはずだった。


 もう一度かける。


 今度は何度か呼び出し音が続き、蓮がまた留守電に切り替わると思った瞬間、電話の向こうでざわついた音がした。


 繋がった。


「もしもし」


 向こうは数秒黙り、布が擦れるような音がする。


 そのあと、久しぶりに聞く女性の声が、おそるおそる響いた。


「もしもし……蓮……」


「うん」


 蓮は淡く返事をした。


 少し年上ぶったような声になった気がして、言い方をやわらげる。


「会社にいる? 琴音」


 電話の向こうが数秒静かになった。


「い、いるよ」


 蓮は少し笑い、冗談めかして聞いた。


「さっき出なかったのは、もう昼休み前だから、伊織と長電話でもしてた?」


「あ……違うの」


 琴音の声は途切れがちだった。


「さっきは……別のことで忙しくて、気づかなかった」


 その押し出すような返事を聞き、蓮は二人の間に何かあるとますます確信した。


「そう」


 話題を変える。


「最近どう? 仕事は大丈夫?」


 伊織は蓮のマネージャーで、琴音は伊織の恋人だ。この関係は会社でもそこまで秘密ではない。さらに蓮は最近何かと話題になっている。普通なら、彼女に手を出すほど空気の読めない人間はいないはずだった。


「大丈夫」


 短い返事だった。


 蓮はため息をついた。


 このまま一問一答を続けても、あまりに効率が悪い。


「そういえば、来週会社の社員旅行があるよね」


「僕の枠を誰かと替えて、君と伊織で行ってきたら?」


 普段なら何でもない一言だ。


 だが今、蓮は琴音の反応を探っていた。


「い、いいよ」


 琴音は明らかに慌てた。


「蓮、来週は私も用事があるし。三浦さんは蓮の仕事を見なきゃいけないでしょ」


「もし用事がないなら、もう切るね。会社でまだ少し――」


 逃げようとしている。


 蓮はすぐに踏み込んだ。


「琴音」


「君と伊織、最近どうしたの?」


「彼が君に何かした?」


 電話の向こうで、琴音は会社のトイレの個室に隠れていた。蓮の言葉を聞いた瞬間、鼻の奥がつんとする。


 久しぶりだった。


 自分にはいつも、こんなふうに「何かされたのか」と聞いてくれる兄のような人がいてほしいと思っていた。


 けれど最近耳に入った話を思い出すと、胸の奥が詰まる。


「違う」


「蓮、本当に会社の用事があるから、切るね」


 蓮は眉をひそめた。


「琴音、君は前ならこんな話し方をしなかった」


「伊織と何があった?」


 電話の向こうが長く沈黙した。


 やがて、琴音が低い声で言う。


「蓮が私たちのことを考えてくれているのは、わかってる」


「でも、三浦さんとはもう別れたの」


 蓮は固まった。


「別れた?」


 聞き間違いかと思った。


「どうして急に? 伊織が何かしたの? どうして僕に言わなかった?」


「蓮、ごめん」


 琴音の声はさらに低くなる。


「そのことは……あなたたち自身に聞いたほうがいいと思う」


 蓮の眉間にしわが深く刻まれた。


「どういうこと?」


「用事があるから、切るね」


「ちょっと――」


 電話は切れた。


 蓮は暗くなった画面を見つめ、しばらく動けなかった。


 今日は、どうしてこうも意味のわからないことばかり起こるのだろう。


 高村に妙な会食へ連れていかれそうになり、琴音へ電話をかければ、なぜか一方的に切られる。


 あなたたち自身に聞け。


 どうして、そこに自分が含まれるのか。



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