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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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再会

「……朔」


 律は、自分の声が震えているのを聞いた。


 ソファから見えていた半分の頭が、ゆっくり振り向く。宵宮朔が、こちらを見た。


 その顔は記憶の中と少しも変わっていなかった。まるで彼がいなくなっていた時間など、ただの夢だったかのように。けれど律にはわかっている。待っていたことも、不安だったことも、もう二度と戻らないのではないかと怯えたことも、すべて現実だった。


「律」


 朔が口を開いた瞬間、律の手から皿が落ちた。


 陶器が割れ、卵とソーセージが床に散る。


 律はそれすら耳に入っていないようだった。数歩で朔の前に行き、膝をつき、両手でその顔を包み込む。指先がわずかに震えていた。


「戻ってきたんだよな?」


 朔はすぐには答えなかった。


 目の前の男を見つめながら、彼自身も呼吸を乱していた。ここが本当に現世なのか、自分は本当にまた律のそばへ戻ってこられたのか、すぐには確かめられない。


 数秒後、朔は律を抱きしめた。


 律も力を込めて抱き返す。


 二人はソファの横で、長いあいだ抱き合っていた。


 やがて律が少しだけ身体を離し、朔の顔を見下ろした。その瞳には、長く抑え込んできた感情が濃く沈んでいる。彼はもう何も聞かなかった。ただ身を屈め、朔に口づけた。


 確かな温度。


 確かな感触。


 幻ではない。


 彼の朔は、本当に戻ってきた。


「帰ってくるって、俺は知ってた」


 律が低く言う。


 朔は笑った。


 ここへ戻るためにどれだけ苦労したか、どれほどの痛みを受けたか。もうどうでもよかった。この人にもう一度会えたなら、それだけで十分だった。


「こほん」


 玄関の方で、控えめな咳払いが聞こえた。


 ソファの二人が同時に固まる。


 先に反応したのは朔だった。彼は律の襟元を引き、顔をその胸に埋める。律が顔を上げると、玄関に蓮が立っていた。


 蓮は片手をドアノブに置いたまま、なんとも言えない表情をしていた。


 帰宅した瞬間、客間から妙な物音が聞こえた。律が何か大音量で妙なものでも見ているのかと思ったが、入ってみれば見ていたのではない。やっていたのだ。


 蓮は眉を少し上げ、二階を指さした。


「上の客室、ベッドは狭くないよ」


 律は無言になった。


 普段どれほど冷静な男でも、この瞬間ばかりは顔の赤みを隠せない。数秒後、律は立ち上がり、朔を抱き上げ、そのまま二階へ向かった。


 蓮は二人を見送った。


 客間が再び静かになる。


 顔に浮かんでいたからかいの色が、ゆっくり消えた。心が、少しずつ沈んでいく。


 朔は戻ってきた。


 律は、待ち続けた相手を待ちきった。


 彼は朔が戻ると信じていて、その信じた通りになった。


 では、清司は。


 白銀清司はやはり、自分の世界に残ることを選んだのだろう。


 それで悪いわけではない。あやかしにとって、現世にどんな意味があるのか。隠り世で自由に暮らし、永遠に近い時間を共にできる同類を見つけるほうが、ずっと自然なのかもしれない。


 蓮は奥歯を噛んだ。


 考えれば考えるほど、自分がひどく情けないほど酸っぱくなっているとわかる。


 どうして、こういう幸運は自分には回ってこないのだろう。


 その夜、蓮はベッドの中で長いこと寝返りを打った。


 身体は疲れているのに、心だけが何かに引っかかって眠れない。結局、彼は起き上がり、清司のことを考えないように自分へ言い聞かせながら着替えて階下へ降りた。


 リビングでは、律と朔がソファに並んで座っていた。


 二人はやけに近く、空気まで甘く絡みついている。蓮は、自分がここにいること自体が場違いなのではないかと思った。


 早すぎるだろう。


 心の中でそう突っ込みながらも、顔を合わせた以上、見なかったふりはできない。


 蓮は近づいた。


「こんばんは」


 朔は顔を上げて、柔らかく笑った。


「こんばんは」


 彼は蓮に多少の好意を抱いているらしかった。


「ここ数日、律のことをありがとう」


「大したことはしていないよ」


 蓮は頷いた。


 朔を見ているうちに、どうしても言葉がこぼれる。


「清司は……」


 朔は一瞬だけ止まった。


 清司からは、しばらく何も言わないよう頼まれている。だから彼は、少し考えたあとで答えた。


「彼のことは、よくわからない」


「一緒に向こうへ戻って、僕は自分の用事を済ませて、すぐにこっちへ戻ってきたから」


 蓮は唇を引き結んだ。


 予想していた答えではあった。


 それでも実際に聞くと、思っていたより受け止めづらかった。


「ほかに何か言っていなかった?」


 朔は少し間を置いた。


 蓮の顔に浮かぶ試すような表情を見て、ふっと意味ありげに笑う。


「何も」


「彼を探したいの?」


 蓮は即座に否定した。


「いや、探したくない。どうして僕があいつを探すんだ。むしろ消えてくれたほうがいい。二度と僕の生活を邪魔しないでほしい」


 少しでも頭が回る人間なら、それがただの強がりだとわかる。


 朔は笑いそうになり、なんとか堪えた。清司がこの言葉を聞けば、どれほどひどい顔をするか、想像するのは簡単だった。


「荷物は片づけたよ」


 朔は玄関の方に置かれたスーツケースを見た。


「僕と律は帰る。しばらくお邪魔しました。もし何かあったら、律に連絡して」


 蓮はその最後の言葉の意味を完全には理解できなかったが、頷いた。


 今の彼には朔が見える。ならば、今後も別のあやかしに遭遇する可能性はある。万が一本当に何かあったとき、朔に繋がる連絡先があるのは悪くない。


「わかった」


「そうする」


 玄関には、律が来たときに持ってきたスーツケースが置かれていた。すでに準備は済んでいるらしい。


「じゃあ、先に失礼するね」


「うん。また」


 律は靴を履き、一方の手でスーツケースを押し、もう一方の腕で朔の肩を抱いて外へ出た。


 車はマンションの外に停めてあった。


 律は荷物をトランクへ入れ、運転席に座り、鍵を差し込んでエンジンをかける。バックミラー越しに見ると、助手席の朔はどこか楽しそうに笑っていた。


「なんだよ。ずいぶん機嫌がいいな」


 朔がこちらを見る。


「律にまた会えたんだから、機嫌がいいに決まってる」


 それはもちろん嬉しい言葉だった。


 だが、律はそれだけで話を流させる気はなかった。


「さっき、どうして佐伯蓮にあんな言い方をした?」


 朔は目に笑みを含ませて律を見る。


「何か気づいた?」


 律は唇を押し結んだ。


「当ててみる」


「清司は、おまえと一緒に戻ってきた?」


 朔はついに笑い出した。


「戻ってきたよ」


「でも、僕と一緒じゃない」




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