帰還の代償
「彼女は、蓮をちゃんと説得してほしいって言っていた」
三浦伊織は車の中で、誰かに聞かれるのを恐れているような低い声で言った。
「君の将来のためにも、って」
伊織は、まだ半分ほど言葉を飲み込んでいた。高橋真紀が彼を訪ねてきたとき、彼女は、伊織が望むなら蓮と一緒に自分たちの事務所へ来てもいい、と言った。その言い方は礼儀正しく、誠意すら感じられたが、伊織にはわかっていた。相手が本当に欲しがっているのは、自分ではない。
大手芸能事務所が必要としているのは、佐伯蓮だった。
若いマネージャーである伊織は、蓮が断りにくくなるよう添えられた条件に過ぎない。仮に蓮が彼を連れて移籍したとしても、あの規模の事務所で自分が居場所を得られる保証はなかった。優秀なマネージャーなど、あの会社にはいくらでもいる。アーティストに付いてきた人間など、あとからいくらでも差し替えられる。
「蓮」
伊織は助手席に座る蓮を見た。
「どうする? 少しは考えてみる?」
蓮はすぐには答えなかった。
彼は契約書を最初から最後まで読み終え、指先を紙の端に置いたまま動かさなかった。紙は薄いのに、その下に重い石が敷かれているように感じる。高橋真紀が提示した条件は、今の蓮が抱えている痛点を、あまりにも正確に避けていた。
違約金は新しい事務所が負担する。
体系的な演技レッスンと海外研修の機会も用意する。
将来的に監督や制作へ進みたいなら、共同制作プロジェクトの現場で学ぶこともできる。
広報、弁護士、危機対応チームについても、契約書にははっきり書かれていた。
今の小さな事務所とは、ほとんど別世界だった。
蓮は、自分の呼吸がわずかに浅くなっていることに気づいた。もし長野で高橋真紀がこの契約書そのものを目の前に置き、口先だけの条件ではなく書面で示していたら、自分はあの場であれほど簡単に拒めただろうか。
「蓮?」
伊織がもう一度呼んだ。
蓮は我に返り、低く「……ああ」と答えた。
伊織はその反応を見逃さなかった。今の事務所に長くいればいるほど、この条件がどれだけ魅力的かはわかる。虚栄でも欲でもない。俳優として上へ行きたいなら、より強い土台、より専門的なスタッフ、より安定した資源が必要になる。
「気持ちがあるなら、僕から連絡を取ってもいい」
伊織が言った。
蓮は契約書を閉じ、軽く息を吐いた。
「高橋さんには、前にも声をかけられている」
「いつ?」
「長野で映画を撮っていたとき」
蓮は契約書を封筒へ戻した。
「主演の高橋奏介君は、彼女の弟だ。彼女が現場へ来たときに、移籍の話をされた」
伊織は目を瞬かせ、それから気づいた。真紀は蓮だけを狙っていたわけではない。
一方では蓮本人に条件を提示し、もう一方ではマネージャーである伊織に接触して、心理的な入口を作ろうとした。真紀は思いつきで動いているわけではない。蓮の現在の事務所が、もっと大きな隙を見せるのを待っていたのだ。
「君も一緒に来られる、と言っていた」
蓮は伊織を見る。
「君が行きたいなら、僕は構わない」
伊織は口を開きかけた。
簡単に言ってくれる。だが移籍のリスクを本当に背負うのは蓮だ。世論に晒されるのも、蓮なのだ。
「君が何を心配しているかはわかってる」
蓮は手を伸ばし、伊織の肩を軽く叩いた。
「機会と危険は、いつも一緒に来る。今あの人が僕に声をかけてくれたとしても、向こうへ行けば必ずうまくいくとは限らない」
伊織は唇を引き結んだ。
「じゃあ、蓮は行くつもりなの?」
蓮は首を横に振った。
「今は行かない」
伊織が固まる。
蓮は車窓の外を見た。
「龍潭虎穴、だね」
静かな声だった。
「今あそこへ行って、彼らが本当に僕を助けるつもりなのか、それとも壊すつもりなのか、誰にわかる?」
彼は十代の子どもではない。きれいな条件を見せられたからといって、すぐに自分を差し出すほど単純ではなかった。もし承諾の一部を録音され、切り取られて「敵対事務所と私的接触」「受賞後すぐ移籍画策」などと書かれれば、もう芝居どころではない。
真紀は賢い。
賢い人間が差し出す好意ほど、表面だけを見てはいけない。
伊織は苦笑した。蓮の拒否が自分のためかどうかは別として、今この判断が一番安全であることは確かだった。
「行こう」
蓮は契約書を返した。
「会社へ戻る」
伊織は頷き、再び車を走らせた。
半時間ほどで、車は事務所のあるビルの近くへ戻ってきた。正面玄関に近づく前に、蓮は会社の前に人だかりができているのに気づいた。警備員が必死に誘導し、普段は滅多に姿を見せない上層部まで入口付近に立っている。どの顔も、明らかに余裕を失っていた。
週刊誌系の記者とネットメディアの記者たちは、蓮が会社に隠れていると決めつけているらしい。何時間もそこに張りつき、帰る気配がなかった。
黒い社用車が現れた瞬間、誰かが叫んだ。
「佐伯蓮だ!」
その一声が、火薬に火をつけた。
記者、カメラ、スマホのレンズ、そして感情的になった一部のファンが、一斉に車へ押し寄せる。伊織の顔色が変わった。
「まずい」
警備員の反応は早かった。すぐに人垣へ割って入り、群衆を押し戻す。
「下がってください!」
「ここは事務所入口です。通行の妨げになります!」
蓮が車を降りた瞬間、質問が雨のように降ってきた。
「佐伯さん、Xでの私生活に関する批判について、どうお考えですか?」
「性指向について多くの議論が出ています。なぜ正面から答えないんですか?」
「個人Xでの発信は、同居を認めたという意味ですか?」
「ファンを傷つけたという声があります。説明はありますか?」
「出入りしていた男性は、いったい誰なんですか?」
蓮は答えなかった。
マスクをつけ、帽子のつばを深く下ろし、警備員に守られながらビルの中へ進む。それでも誰かのカメラが人の隙間から突き出され、ほとんど顔に触れそうな距離まで迫ってきた。
「もうやめてください。質問は控えてください!」
警備員の一人が、ついに苛立った声を上げた。彼は最もきつい質問を投げた記者を睨み、強引に押し返して蓮と伊織を社内へ入れた。
ガラス扉の内側に入ると、伊織は振り返って外を見た。
人々はゾンビのように玄関へ張りついていた。
記者だけではない。感情的なファンも混じっている。伊織は、もし蓮がいつか本当に恋愛や関係を公にしたら、あの人たちはその場で彼を引き裂きかねない、と背筋を冷やした。
「佐伯さん、三浦さん」
受付スタッフが小走りで近づいてくる。
「高村専務が上でお待ちです」
会社の中に入ってからも、警備員は二人を最上階まで護送した。
会議室の扉を開けると、中にはすでに多くの人が座っていた。蓮はざっと一瞥しただけで、特に何も感じなかった。もともと会社の上層部と一緒にいる機会は少なく、見覚えがあっても名前までは出てこない人が多かった。
反対に、伊織は明らかに驚いていた。
これまでの会議で、これほどの人数が集まったことはない。中には一年に一度も会議室で見ないような上層部までいる。今日の会議が普通の相談でないことは明らかだった。
「来たなら座ってくれ」
高村剛は上座に座っていた。顔には疲労が濃く出ている。
伊織は蓮を連れて適当な席に座り、ノートを開き、ついでに蓮へペンを渡した。
「蓮、こういう会議に出るの、初めてだよね?」
「うん。初めて」
以前、会社で会議があっても蓮はたいてい現場にいた。何か決定事項があれば、伊織から伝えられるだけだった。そもそも当時の蓮には熱度もなく、多くのことは彼を通さずに進んでいた。
会議が始まると、蓮はしばらく耳を傾けた。
広報部、マネジメント部、法務顧問、宣伝担当が順番に発言する。補足声明を出すべきか、盗撮アカウントを追及すべきか、広告主の一時停止による損失をどうするか、今後しばらく蓮の露出を減らすべきか。
蓮はだんだん眠くなってきた。
軽視しているわけではない。ただ、皆が長く話しているわりに、実行できそうな案がほとんど出てこないのだ。
一方、蓮の部屋では、早乙女律がキッチンから皿を持って出てきた。
皿の上には焼きたての卵とソーセージが載っている。片手で朝食を持ち、もう片方の手でスマホを操作していた。蓮との噂はまだ完全には下火になっておらず、所属する実業団の管理担当からも早く説明を出すよう催促されていた。
律は面倒くさそうにため息をつき、スマホをポケットへ突っ込んだ。
「……本当に面倒だな」
顔を上げる。
テレビはいつの間にかついていて、やけに大げさな朝ドラが流れていた。だが、そんなものはどうでもよかった。
問題は、ソファに誰かが座っていることだった。
それは、律がずっと待っていた相手だった。




