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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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沈黙の真実

 もしかすると、清司はもう二度と戻ってこないのかもしれない。


 少なくとも今の蓮は、そう思っていた。


 ここに何があるというのだろう。


 何もない。


 清司と自分の関係も、戻ってくる理由になるほど深いとは思えない。


 結局、清司には帰ってくる理由などないのだ。


 蓮は上着を羽織り、重く息を吐いた。


 それから深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。


 そろそろ、立て直さなければならない。


 現実味のない夢ばかり見ている場合ではない。


 起きてしまったことを、いつまでも惜しんでも仕方がない。


「行ってくる」


 蓮はドアを開け、律の返事を待たずに、そのまま閉めた。


 階下では、伊織が車のそばで待っていた。


「蓮さん!」


 蓮は少し身を縮め、早足で階段を下りる。助手席へ乗り込んだ。


「蓮さん!」


 伊織がもう一度呼ぶ。


 蓮は彼を見る。


 なぜだか、今日の伊織は機嫌がよさそうだった。


 蓮はシートベルトを締めながら、伊織が車を出す前に聞いた。


「この数日、何かいいことでもあった?」


「ずいぶん嬉しそうに見える」


 伊織は笑った。


「数日前、事務所の資金問題が解決したんです」


 蓮は眉を寄せた。


「資金問題?」


 伊織は頷いた。


「蓮さんがあのXを出したあと、事務所はファンとアンチの両方からかなり叩かれました。いくつかの取引先が企画を止めて、広告も何件か消えたんです。高村専務はかなり頭を抱えていたみたいで」


 そこまで言って、伊織は何かを思い出したように付け加えた。


「ただ、あとから誰かが高村専務を助けたらしくて、資金繰りは一旦持ち直したそうです」


 高村という名前を聞いた瞬間、蓮の胸には不快感が走った。


 会食の夜のことが、また浮かぶ。


 伊織が車を車道へ出した。


 マンション周辺を離れようとした瞬間、車の前に黒い影が飛び出してきた。


 伊織は驚いて、急ブレーキを踏む。


 すぐに、スマホや小型カメラを持ったネット記者たちが車を囲んだ。


「佐伯さん、最近ずっと家にこもり、取材も仕事も断っているのは、同棲中の男性が芸能界引退を望んでいるからですか?」


「Xでの評価について、どうお考えですか?」


「あの謎の男性とは、どういう関係ですか? ファンに隠していたんですか?」


「以前、恋人はいないと答えたのは、ファンを騙していたということですか?」


 質問が次々に投げつけられる。


 伊織の顔色が一気に悪くなった。


 彼はすぐに窓を上げ、クラクションを二度鳴らして、道を空けるよう示した。


 だが記者たちは簡単に退かない。中には、カメラを窓ガラスに押しつける者までいた。


 蓮は助手席に座り、表情を崩さなかった。


 レンズも見ず、口も開かない。


 やがて管理人側の警備が駆けつけた隙に、伊織は車をわずかな隙間から抜け出させた。


 大通りに出るまで、車内は静かだった。


 伊織はハンドルを握ったまま、長いあいだ黙っていた。


「蓮さん」


「うん?」


「もう一つ、話があります」


 その声は、さっきより低かった。


「授賞式のあとの会食のことです……本当は、ずっと言わなきゃと思っていました」


 蓮は彼を見る。


 伊織の喉が小さく動いた。


「高村専務はあの日、たしかに飲みすぎていました。蓮さんにもずっと飲ませていました。あとで蓮さんの意識がかなり曖昧になったとき、休ませると言って連れて行こうとしたんです」


「僕が追いかけたとき、彼が……」


 伊織は最後まで言わなかった。


 だが、蓮には十分だった。


 彼は初めて聞いたふりをして、顔色を少しずつ沈めた。


「だから、あの日、言わなかったんだ」


 伊織はハンドルを強く握った。


「すみません」


「その時は、とにかく蓮さんを家へ連れて帰ることしか考えていませんでした。そのあとも、話したら余計につらくなると思って。会社のこともあって……」


 彼は言葉を止めた。


 蓮も、続きを促さなかった。


「わかった」


 車内は再び沈黙した。


 しばらくして、伊織はようやく決心したように言った。


「それから、もう一つあります」


 蓮は横を見る。


「何?」


 伊織は深く息を吸った。


「蓮さん、移籍を考えたことはありますか? 事務所を変えることを」


 蓮は固まった。


 聞き間違いかと思った。


「どういう意味?」


「ただ、聞いているだけです」


 伊織は彼を見なかった。


「そういう考えはありますか?」


 数日前、真紀からも同じような誘いを受けたばかりだ。


 蓮はすぐに違和感を覚えた。


「誰かが君にも接触した?」


 ちょうど赤信号で、車が止まった。


 伊織はすぐには答えなかった。


 信号が青に変わると、彼は車を進め、少し先の路肩へ停めた。


「はあ……」


 伊織はため息をつき、後部座席からビジネスバッグを取った。


 バッグを開け、一つの書類を取り出す。


 蓮はその書類を見て、眉をゆっくり寄せた。


 大きさ、色、表紙のつくり。どれも真紀があの日渡してきたものによく似ている。


「本当は、言うつもりはありませんでした」


 伊織は書類を蓮へ渡した。


「でも、前に高村専務のことを黙っていたことを考えたら……」


「今の事務所は、蓮さんにとって力不足なのかもしれないと、思ってしまって」


 彼は蓮を見る。


 声は苦しかった。


「これは、高橋真紀さんから預かったものです」


 蓮は書類を受け取った。


 表紙に印刷された「契約書」の三文字が、やけに鮮明に目に入る。


 やっぱり。


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