認めたくないけど、会いたい
蓮はふと、清司が朝比奈旭を懲らしめたとき、なぜあれほど怒っていたのかを少しだけ理解した気がした。
自分は時々、あまりにも控えめすぎる。
気にしないことと、事態がどう転ぶかは別の問題だ。
律が怒っているのは、蓮がこういう状況でも、成り行きに任せようとしているからだ。きつく言えば、それは逃げに近い。
この仕事を始めたころ、蓮は自分がこんな問題に巻き込まれるとは思っていなかった。
きちんと振る舞い、人を傷つけず、余計なことをしなければ、他人も自分に余計なことをしてこない。そう思っていた。
今になってみれば、その考えは幼稚だった。
彼はずっと行儀よくしてきた。誰かを害したこともない。それどころか、助けたことすらある。
では、今はどうだ。
泥をかぶっているのは蓮だ。
矢面に立たされているのも蓮だ。
彼は眉をひそめて自分を見ている律を見上げた。なぜか、現実に向き合わされているような居心地の悪さを感じる。
「家にいるだけで何も変わらないのは、わかってる」
蓮は言った。
「でも今、本当に何をすればいいのかわからない。だから、少し待つしかないと思ってる」
律が怒るのは、蓮が弱いからだ。
では、清司があのとき怒ったのは何のためだったのか。
そんな疑問が、不意に頭へ浮かんだ。
自分でも唐突だと思う。
律はしばらく蓮を見たあと、冷たく言った。
「俺は助言しただけだ」
「自分で考えろ」
蓮は唇の端を少し上げた。
「それでも、ありがとう」
そう言って、部屋へ戻った。
ベッドへ身体を投げ出しても、頭の中にはさっきのことが残っていた。
清司は、蓮が旭に陥れられたと知って、なぜあれほど腹を立てたのか。
人間というものを、清司は誰よりも冷めた目で見ているはずだ。
賢くもないのに、互いを陥れようとする。弱いくせに、自分が強いと思い込む。
そんなことは、毎日のように起きている。実際、彼らの目の前でも起きていた。
そのとき清司は、なぜ怒ったのか。
自分のために、腹を立てたのだろうか。
一方、隠り世。
旧神域にある白狐宮の外では、夜霧が石段へ垂れ込めていた。遠くの狩場からは獣の唸り声がかすかに届き、宮殿の中では今夜の祭典の支度が進められている。
宵宮朔は窓辺に立ち、墨色の森を見つめていた。
「朔」
清司が声をかける。
朔は反応しなかった。
「朔」
清司の手が肩に触れて、ようやく朔は我に返り、振り返った。
清司は狩場から戻ったばかりらしい。袖にはまだ消えきらない妖気がまとわり、顔には身体を動かしたあとの赤みが残っていた。
「またぼんやりしているのか」
清司は眉をひそめた。
「今夜は宮で祭典がある。今度こそ、理由をつけて逃げるなよ」
朔は清司の顔に浮かぶ久しぶりの軽さを見て、かえって胸が落ち着かなくなった。
「戻らなければならない」と思いながら現世に留まり、律のそばにいた。今ようやく隠り世へ帰ってきて、いつ自分が消えるかを心配する必要もなくなった。
本来なら、安心して今を受け入れるべきなのだろう。
けれど。
「今夜は行かない」
清司の眉間に皺が深くなる。
朔は苦笑した。
「悪い。祭典に出る気分じゃないんだ」
清司はしばらく彼を見つめたが、最後には無理に誘わなかった。
「好きにしろ」
そのまま背を向ける。
「清司」
朔が呼び止めた。
清司は振り返る。
「おまえ、現世にずいぶん長くいたよな」
朔は彼を見た。
「何か、置いてきたものはないのか?」
清司は一瞬、固まった。
すぐに笑う。
「俺が現世にいたのは、俺たちがはぐれたからだ。おまえを探すために決まっているだろう」
そこまで言って、何かに気づいたように聞き返した。
「おまえにはあるのか?」
朔はすぐには答えなかった。
ただ、清司を見つめる。
二人は数千年の付き合いだ。ひとつの目線、ひとつの動きだけで、相手が次に何を考えるかまでわかる。清司が意図的にこの話題を避けていることくらい、朔にはすぐわかった。
「俺が聞いているんだ」
朔は言った。
「置いてきたものはないのか。あるいは、誰かを」
清司は眉を上げ、断言する。
「ない」
嘘だ。
朔はほとんど即座に確信した。
「本当に?」
「ない」
答えが早すぎた。
朔はそれ以上追及せず、また窓の外へ視線を戻した。
清司はなぜか苛立ち、次の瞬間、その場から消えた。
そんなはずがない。
あるはずがない、などと。
自分は現世を離れて、どれくらい経ったのか。あの人間は今、どうしているのか。
ちゃんと暮らしているのか。
自分がいないあいだに、あの小説家とまた近づいていないか。
蓮に救われた男は、まだ蓮を害そうとしていないか。
あの高村とかいう男は、また蓮へ近づいていないか。
あの人間は、本当に愚かだ。
自分がいなければ、何ひとつうまくできない。
戻ったばかりのころ、清司はこんなことを考えていなかった。
けれど時間が経つにつれ、佐伯蓮の顔が勝手に浮かぶようになった。
怒っている顔。
笑った顔。
眠っている顔。
真剣に台本を読んでいる顔。
それから、何気なく自分を見るときの、逃げているようで隠しきれていない目。
佐伯蓮に関するすべての場面が、映画の巻き戻しのように頭の中で繰り返される。
自分が人間を思い出していると気づいた瞬間、清司は初めて戸惑った。
彼は、人間の短い命をずっと軽く見ていた。
百年など、あやかしにとっては一瞬にすぎない。
やがて消える器を守りながら生きるなど、耐えられないと思っていた。
だから戻ってからの数日、彼はひたすら動き回った。旧友と狩りをし、討伐に参加し、賑やかな場所へ行き、気を紛らわせるものは何でも見た。
忙しければ、たしかに蓮を思い出さない。
けれど少しでも立ち止まると、蓮が頭へ入り込んでくる。
現世に似たものを見ただけで、あの男を思い出す。
それらは全部、蓮に結びついていた。
自分は、あの人間に対して、何か違う感情を持ち始めているのかもしれない。
清司には、それが良いことなのか悪いことなのかわからない。
だから逃げたかった。
遠くへ。
できるだけ遠くへ。
だが感情というものは、訪れた時点で、本当には逃がしてくれない。
どうすればいいのか。
彼は本当に、少し蓮に会いたかった。




