言えなかったあの一言
蓮が東京へ戻ったことは、誰にも知らせていなかった。
伊織にもだ。
そのため伊織は東京から長野の撮影所へ向かい、監督から蓮の出番が前日に終わっていたと聞かされ、そのまままた東京へ引き返す羽目になった。
往復で、ほとんど十二時間。
蓮の家へ着いたころには、もう午後だった。
「蓮さん」
玄関に入ってきた伊織の顔は疲れきっていた。笑みも苦かった。
「次にこういうことがある時は、電話一本だけでもください」
蓮は固まった。
「もしかして、長野まで行って、そのまま戻ってきたの?」
伊織は苦笑した。
答えなかった。
彼はリビングへ入り、ソファに腰を下ろす。茶杯に水を注ぎ、一気に飲み干した。
「蓮さん」
「事務所のほうですが……今のところ、これといった打つ手がありません」
伊織は眉間を揉んだ。
「しばらく様子を見るしかないかもしれません」
蓮は眉を寄せた。
予想していた答えではある。けれど実際に聞くと、胸の奥が沈んだ。
事務所に何もできないなら、自分ひとりでどうにかしろということなのか。
「ふん」
隣に座っていた律が鼻で笑った。
伊織を見る目には、わずかな軽蔑が混じっている。
蓮は律を見て、それから伊織を見た。
二人の空気が、一瞬気まずくなる。
これは本来、事務所内部の問題だ。律は巻き込まれた当事者ではあるが、それでも外部の人間であることに変わりはない。
当事者は身動きが取れず、背後の事務所は動きが遅い。
律は立ち上がり、それ以上は何も言わず、二階の客室へ戻っていった。
その背中が見えなくなると、伊織は蓮のそばへ寄り、声を落とした。
「蓮さん、彼はいったい誰なんですか?」
蓮は困ったように肩をすくめた。
「しばらくここに泊まっているだけだよ」
「親戚ですか? 友人?」
「親戚ではない」
「じゃあ、どういう――」
「伊織」
蓮は彼の言葉を遮った。
その目は、さっきよりずっと真剣だった。
「私的すぎる質問には、答えない権利がある」
「僕が公の場に出る仕事をしているからといって、他人が理解できないことまで全部説明しなきゃいけないわけじゃない」
伊織は口を開いたが、何も言えなかった。
蓮の言うことは正しい。
説明しなくていいことはある。
ただ現実には、自分には聞く権利があると思い込んだ人間たちが、外で大勢待っている。
蓮は、他の芸能人ほどファンに見せるイメージ作りへ執着していない。
契約したときから、そう言っていた。
自分がしたいこと、好きなことをするのがいちばん大事だ。どれほど難しい時期でも、迎合するために自分を曲げるつもりはない、と。
伊織はそれを覚えている。
「蓮さんに、ご自身の原則があることはわかっています」
そこまで言って、彼は続きに詰まった。
最後はため息をつくしかなかった。
「わかりました」
「事務所が今すぐ有効な手を出せないのも事実です。このタイミングで他に助けを求めるのも、現実的ではないですし」
助けを求める。
その言葉に、蓮の眉がわずかに動いた。
前日、真紀から渡された契約書のことを思い出す。
あの書類は、今も鞄の中にある。
一瞬、伊織に聞きそうになった。
いっそ、高橋真紀のいる事務所へ移るのはどうだろう、と。
けれどその言葉は喉に刺さったまま、出てこなかった。
長いあいだ迷った末、結局、蓮は何も言わなかった。
「蓮さん、この数日は食べ物や飲み物を届ける以外、僕はなるべく来ないようにします」
伊織は低い声で言った。
「マネージャーだと周囲もわかっていますが、今は接触を減らせるなら減らしたほうがいいので」
蓮は彼の心配を理解していた。
「うん、わかった」
伊織が帰って数分後、蓮が玄関から戻ろうとしたとき、二階でドアが開く音がした。
顔を上げる。
律が階段の上に立ち、上から蓮を見下ろしていた。
その目は、なぜかひどく不機嫌だった。
「本気で、このまま家に閉じこもるつもりか?」
蓮は目を上げた。
この件についてどれだけ動いても、すぐに何かが変わるとは思えない。
「しばらくは、あまり人と連絡を取らない」
彼は言った。
「今はほかに方法が思いつかない。風向きが変わるのを待って、そのあとで改めて説明する」
律の顔が完全に沈んだ。
「風向きが変わるのを待つ?」
声には怒りが混じっていた。
「今解決しないで、いつ解決するつもりだ」
「家に閉じこもって、それで何が変わる?」
蓮は黙った。
律は彼を睨むように見つめた。
「こういうことは早く片づけないと手遅れになる。風向きが変わるのを待つなんて、愚かだ」
「佐伯蓮」
「自分を守ることを覚えないなら、誰もおまえがどうなろうと気にしない」
「おまえの事務所だってな」
蓮は長く息を吐いた。
そんなことは、自分でもわかっている。
わかっているからこそ、律に真正面から言われると、胸の奥に言いようのない痛みが走った。




