火の付いた勧誘
「あなたの芝居を見たわ」
荷物をまとめていた蓮の手が止まった。
声のほうを見ると、高橋真紀が立っていた。
今日の彼女は仕事用のジャケット姿で、腕を組み、相変わらず自信に満ちた落ち着いた笑みを浮かべている。
「正直に言うわ、佐伯君。あなたには才能がある」
彼女は近づいてきた。
「最初は、来ないなら来ないで構わないと思っていた。でも今は、あなたが来ないことは、こちらにとって損失だと思っている」
蓮は内心うんざりしつつも、礼儀正しく笑った。
「高橋さん」
真紀は彼の前に立つ。
蓮は無意識に半歩下がり、自分なりの安全な距離を取った。
この女性は、食えない人間だ。
彼女と関わった者の多くは、きっと簡単には抜け出せない。まして蓮は、今まさに妙な同棲疑惑を背負わされている。これ以上、余計な火種を作りたくはなかった。
「どう?」
真紀は単刀直入に切り出した。
「もう一度、考えてみない?」
「こちらへ来るなら、どんな問題でも解決するわ。昨日のXの件も含めて」
彼女は蓮を見る。
「今の事務所も、ずいぶん困っているでしょう?」
蓮は眉を寄せた。
含みのある言い方だった。
思わず、この騒ぎはあなたたちが仕掛けたのかと聞きたくなる。
だが証拠はない。
真紀も認めるはずがない。
蓮が黙っているのを見ても、真紀は驚かなかった。向かいに座り、肩にかけていたバッグをテーブルに置く。そこから書類の束を取り出し、蓮の前へ滑らせた。
蓮の視線が、表紙に落ちる。
「契約書」
眉がわずかに動いた。
「高橋さん、これは?」
自分がそんなに簡単に説得されるように見えるのだろうか。
真紀は笑い、まずは黙って聞けというように手を上げた。
「急いで拒まなくていいわ」
「あなたをうちが獲得した場合に提示できる条件よ」
声は落ち着いていた。
「どう言ったって、私は引き抜きをしようとしている側だから。あなたを引き抜きたいと思う以上、あなたにそれだけの力があると認めている」
「うちは優秀な人材に対して、待遇を惜しまない」
「まず読んで。それから決めればいい。最後に断るなら、燃やして捨てても構わないわ」
蓮はその書類を見つめた。
受け取らなければ、真紀の顔を潰すことになる。
受け取れば、彼女の誘いを一部認めたようにも見える。将来それを誰かに撮られたり漏らされたりすれば、また嫌な記事になるだろう。
この女は本当に手強い。
人を手に入れられなくても、まずは熱い石を握らせてくる。
蓮はしばらく沈黙したあと、結局その書類を手に取った。形だけ一ページ目を開き、それから鞄にしまう。
「東京に戻ったら読みます」
真紀は頷いた。
蓮が帰ろうとしていることを察したのか、それ以上は引き止めなかった。
「ええ」
「いい返事を待っているわ」
蓮は内心で冷笑した。
まだ読んでもいないのに、もう良い返事が来ると決めているらしい。
「では、高橋さんのお邪魔はこれくらいで」
彼は微笑した。
「失礼します」
「またね」
撮影所を出て、真紀の視線から離れてから、蓮はようやく少し息を吐いた。
手配された車は十分後に来た。
人に気づかれないよう、蓮はマスクをつけ、帽子を深くかぶった。四時間以上かけて東京へ戻ったころには、もう夕方六時になっていた。
彼はマンション前まで車をつけさせず、少し離れた歩行者通りで降りた。
支払いを済ませたあと、まず飲食店で温かい食事を買い、それからスーパーで冷凍食品、パン、牛乳、簡単な食材を買い込んだ。
なぜだか、これから数日はまた外へ出られなくなる気がした。
大きな袋をいくつも抱えてマンションへ戻る。
ドアを開けた瞬間、部屋の中から食欲をそそるカレーの匂いがした。
キッチンの入口から、半分だけ顔が出る。
早乙女律がエプロンをつけたまま、蓮と目を合わせた。
「撮影、終わったのか?」
蓮は彼を見た。
一九〇センチ近い大柄な男がエプロンをつけている光景は、どう見ても少し違和感がある。
「うん」
「ちょうどいい」
律が言った。
「カレーを作りすぎた。一緒に食べろ」
「ありがとう」
蓮は荷物を自室へ運び、ベッドに頭から倒れ込んだ。数分だけ、何も考えない時間を自分に許す。
ほどなくして、ドアがノックされた。
「コンコン」
「どうぞ」
蓮が起き上がると、律が入口に立っていた。
「Xの件、どうするつもりだ?」
律は余計な前置きをしない。
蓮は数秒かかって、ようやく何の話か理解した。
どうしてそこまで気にするのかと聞きかけ、すぐに思い出す。今回の騒動では、蓮と律の二人が、勝手に「主役」として扱われているのだ。
「よくわからない」
蓮は言った。
「事務所の判断を待つ」
律は眉をひそめた。
「こんなに時間が経っても、事務所から連絡がないのか?」
「ない」
「こういう時に、おまえ自身は何も考えていないのか?」
蓮は肩をすくめた。
「ないよ」
律の眉間の皺がさらに深くなる。
「何もしないつもりか?」
蓮は彼を見る。
「何ができる?」
律は唇を引き結んだ。
ここ数日、外には記者がうろついている。外出するにも完全防備が必要で、そうでなければ見世物のように質問攻めにされる。聞かれる内容も、気分のいいものではなかった。
蓮がこの件を早く処理しなければ、律自身もこの家に閉じ込められたままだ。
「僕がXに投稿したこと、事務所は知らなかった」
律が固まった。
蓮を見る目が、頭のおかしい人間を見るそれに近くなる。
「事務所が知らなかった?」
そんな炎上の最中に、所属俳優が好き勝手に投稿することを、まともな会社が許すはずがない。
蓮は肩をすくめた。
それは、ほとんど肯定だった。
律は一瞬、言葉を失った。
管理が緩いどころではない。
完全に制御不能だった。




