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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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現場を呑む迫真の演技、そして帰還へ

 蓮は弁当を見つめたまま、しばらく固まっていた。


 どうしてそんな考えが浮かんだのか。


 清司と朔は、あちらの世界へ戻ったあと、無事に過ごしているのだろうか。もし、戻った先で終わりのない追跡に遭っていたら。もし、誰かに命を狙われていたら。


 もし今、どこかで逃げ回っているせいで、現世へ戻ってこられないのだとしたら。


 そんなことを考え始めた途端、蓮の胸は理由もなくざわついた。


 清司は何も言わずに消えた。


 その時点で、おかしいとは思っていた。


 急いでいたとしても、ひと言「行く」と言う時間すらなかったのか。あそこまで慌てていたのか。


 もし清司に何かあったのなら、なぜ言わないのか。


 清司にとって、自分は何なのだろう。


 いてもいなくてもいい契約者?


 朔を見つけたら、すぐに置いていける相手?


「清司……」


 名前が口から漏れたことに気づき、蓮は自分で驚いた。


 手に持っていた弁当箱が傾き、床へ落ちる。


 幸い、台本にはかからなかった。だが飯とおかずは床に広がり、ひどく情けない光景になった。


 蓮は、ほとんど食べていない弁当を長いあいだ見つめていた。


 目の奥の光が、少しずつ暗くなっていく。


 最後に、彼は小さく息を吐いた。


 床を片づけ、弁当をゴミ箱へ捨てる。それから台本を持って、撮影現場へ戻った。


「佐伯君! ちょうど探してた」


 庭へ入ると、奏介が手を振った。


「食べ終わった? 午後のシーン、合わせてみない?」


 蓮は顔に残っていた沈みを隠し、笑みを作った。


「いいですよ」


 奏介は蓮を脇へ引っぱり、わざわざ明彦も呼んだ。


「俺たちが合わせているうちに、うっかり本番以上のものが出たらもったいないから、明彦に撮ってもらおう」


「はい」


 明彦が蓮に挨拶する。


 蓮も頷いた。


「うん」


 奏介は二人がすでに知り合っていることに気づき、少し好奇心を浮かべた。


「知り合い?」


 明彦は首から下げたカメラを軽く持ち上げた。


「さっき一枚撮らせてもらって。それで知り合った、という感じですかね?」


 後半は明らかに蓮へ確認する声だった。


 蓮は笑って頷いた。


「さっき、あちらで会いました」


「ならちょうどいい。紹介の手間が省けた」


 奏介は台本を脇へ置いた。


「こいつ、アメリカから戻ったばかりなんだ。今回の撮影も、黒沢監督は最初からチームに入れたがってたけど、本人がまず見て勉強したいって」


 蓮は少し驚いて明彦を見た。


 目の前の男は二十五歳にも届いていないように見える。けれど黒沢のそばで撮影に関われるなら、ただ親戚だから現場にいるだけの新人ではないのだろう。


 明彦はカメラをセットした。


「二人は台本を見てください。僕は機材を調整します。いつでも入ってもらって大丈夫なので、気にしないで」


 蓮と奏介は部屋の中央へ立った。


 ここは、主人公と相原透が対峙する場面だった。


 相原透はすでに崩壊の淵にいる。主人公は、全力で彼を引き戻そうとするが、最後まで救うことができない。


 奏介が先に口を開いた。


「俺を信じろ」


「自首してくれれば、必ず納得できる答えを出す」


「納得できる答え?」


 蓮はその言葉を繰り返した。


 笑みが少しずつ、血の匂いを帯びた残酷なものへ変わっていく。


 彼は、手術台の上で管だらけになった女性を指さした。


「僕が自首したら、彼女は生き返るのか?」


「僕が自首したら、僕たちの生活は戻るのか?」


「僕が自首したら、あいつらは正しく罰を受けるのか?」


 問いが次々と落ちて、奏介は一瞬言葉に詰まった。


 たしかに。


 起きてしまったことは、もう取り返せない。死んだ人間は戻らない。真相が明らかになったとしても、「自首」という言葉一つで傷が癒えるわけではない。


 奏介は感情を立て直し、台詞を続けた。


「それでも、自分のことを考えろ」


「彼女は、今のおまえを見て喜ぶと思うのか」


「……違う」


 蓮は首を横に振った。


 顔に、葛藤が少しずつ浮かび上がる。


 ベッドに横たわる人物は、相原透にとって永遠に手放せない存在だった。彼の感情を動かせるものは何もない。ただ、その人のことだけが別だった。


「違う」


 声がだんだん低くなる。


「……あいつらだ」


「全部、あいつらが」


「あいつらさえいなければ、僕はこんなところまで来なかった」


「パン!」


 道具用の銃声が耳元で弾けた。


 床の人形が倒れ、服の下に仕込まれた血糊が破裂する。赤い液体が布を濡らし、床へ流れた。


「パン! パン! パン!」


 蓮は感情に完全に呑まれたように、罪の象徴である人形へ向けて何発も撃ち込んだ。


 奏介は立ち尽くしたまま、次に駆け寄って相原透を止めるはずの動きを忘れていた。


 蓮は床一面の「血」を見て、少しだけ我に返る。


 それから、恐る恐る声をかけた。


「奏介君?」


「あ……」


 奏介は瞬きをし、ようやく現実へ戻ったように苦笑した。


「ごめん。今、受けるのを忘れた」


 本来なら、蓮が連続で撃った直後、彼はすぐに飛び込んで相原透を押さえるはずだった。


 だが、あの瞬間、本当に蓮の芝居に引き込まれていた。


「さっきの演技、すごかった」


「パチパチパチ」


 奏介の率直な褒め言葉に続いて、少し離れた場所で明彦も拍手した。


 彼は蓮の前へ来て、驚きを隠せない顔で言った。


「佐伯君、今の、本当に良かったです」


「感情の入り方が強くて、僕まで引き込まれそうでした」


 蓮は笑った。


 二人にそう言ってもらえただけで、この長野まで来た意味はあった。


 役に入れたあとの午後の本番撮影は、驚くほど順調に進んだ。


 すでに出番を終えた役者たちも、蓮と奏介の対峙シーンを見に来ていた。黒沢は昼に撮った映像を見て絶賛していたが、本番で同じ感情を再現できるかを少し心配していた。結果、二人はその不安をきれいに消した。


 最も重要な対峙シーンが終わったあと、周囲のスタッフたちはまだ余韻を引きずっていた。


「良かったよ、二人とも」


 収録後、黒沢は奏介と蓮を呼び、二人の肩を叩いた。目にははっきりとした満足があった。


 蓮は頭を下げた。


「監督のおかげです」


「こういうときまで謙遜しなくていい」


 黒沢は笑った。


「皆、君たちの芝居を見ていた。この映画は、きっといい反応をもらえる」


 彼は蓮を見る。


「そうだ、佐伯君。君の出番はこれで終わりだ。このあと数日、長野に残ってチームと一緒に東京へ戻る? それとも先に帰る?」


 その瞬間、奏介が蓮を見た。


 目に、少しだけ期待がある。


 蓮は気づいたが、気づかなかったふりをした。


 黒沢へ申し訳なさそうに笑う。


「事務所で処理しなければならないことがあります。こちらの撮影が終わったなら、先に東京へ戻ります。次に時間ができたら、長野にはゆっくり遊びに来ます」


 黒沢は驚かなかった。


 昨夜のXの騒ぎがまだ落ち着いていない。蓮に長野でのんびりする余裕がないことは、彼にもわかっていた。


 ただ、少し惜しかった。


 この先大きく伸びそうな若い俳優と、もう少し話したかったのだ。


「わかった」


 黒沢は声を落とす。


「車は手配しておく。何か困ったことがあれば、いつでも連絡して」


 蓮は一瞬、返事が遅れた。


 黒沢はもう彼の肩を叩き、奏介を連れて現場へ戻っていった。蓮の出番は終わったが、奏介のラストシーンはまだ残っている。


 蓮はその場に立ち、二人の背中を見送った。


 胸の中に、少しだけ不思議な感情が残る。


 最後には、休憩場所へ戻って荷物をまとめた。


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