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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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アウェーの現場と、ライバルからのヘッドハンティング

 通話を終えると、蓮は昨夜途中まで読んでいた台本をまとめ、ため息をついて旅館を出た。


 撮影所までは歩いて三十分ほどだ。朝の運動だと思えばいい。


 道中、蓮は台詞を読みながら歩き、少しずつ役の感覚を探った。気づいたときには、もう撮影地の入口に着いていた。


 門のところにいたスタッフ二人は、蓮を見るなり、目にかすかな嫌悪を浮かべた。そのあと、関わりを避けるように身体を横へずらし、何も言わなかった。


 蓮はそれに気づいた。


 だが足は止めなかった。自分から挨拶をすることもなく、そのまま中へ入る。


 現場はいつも通り賑やかだった。


 撮影中の者、台本を確認している者、休憩を取りながら朝食を食べている者。けれど蓮が現れると、いくつもの視線が密かに彼へ向いた。


 好奇心、憶測、気まずさ。


 蓮はその距離を気にしなかった。


 適当な椅子に腰を下ろし、台本を開く。


 しばらくして、少し離れた場所がざわついた。


 蓮が台本から顔を上げると、女優の早川静香と主演俳優の高橋奏介が監督の前に立っていた。二人とも頭を下げている。黒沢航の表情は良くなく、どうやらさっきのシーンについて指導しているところらしい。


 問題は主に静香にあるようだった。


「佐伯君!」


 遠くから奏介が手を振った。


 その名前を聞いて、指導を受けていた静香も好奇心を隠せず、こちらを見た。


 蓮は椅子に座ったまま、軽く笑って返した。


「おはようございます」


「今日は早いね。午後からじゃなかった?」


 奏介は蓮のそばへ来て腰を下ろし、水筒を持ち上げて大きく水を飲んだ。水滴が顎から襟元へ落ちても、本人は気にしていない。


 蓮は手元の台本を軽く振った。


「昨夜ちょっとあって、寝坊する気にもなれなかったんです。早めに来て、台本を見直そうと思って」


「少し、調子が戻らなくて」


 奏介は頷いた。


 彼は脚本全体を読んでおり、蓮の役がかなり難しいことを知っていた。普段の蓮は礼儀正しく、口数は多くないが、必要なときには少しの冗談で場を和らげる。けれど相原透はまったく違う。危険で、壊れやすく、感情がいつ切れてもおかしくない糸のような男だ。


 実際に蓮と芝居を合わせていなければ、目の前の静かな男があの圧を出せるとは思わなかっただろう。


「君の役、かなり掴みにくいよね」


 奏介は静香のほうへ目を向けた。


「俺も今日は大変だよ。早川さん、なかなか感情が入らなくて、黒沢監督がそろそろ限界っぽい」


 静香は少し離れた場所で、木に向かって何度も台詞を繰り返していた。


 その背中は、どこか孤独に見えた。


 奏介は少し笑った。


「でも、あの人は根性あるよ。監督から聞いたけど、この役に決まったの、二日前なんだって。台本が手元に届くまでの時間を考えたら、実質一日くらいしかなかったはず」


 蓮はもう一度静香を見た。


 一日で役を把握し、この規模の撮影に立つ。それだけでも十分に大変なことだ。


「そういえば……」


 奏介が急に言いよどんだ。


 蓮は彼を見る。


「どうしました?」


「昨日、君のXを見た」


 蓮は水を取ろうとしていた手を止めた。


 奏介が今朝からどこか言いたそうだった理由が、ようやくわかった。


 数秒の沈黙のあと、蓮はペットボトルの蓋を開けた。


「聞きたいことや言いたいことがあるなら、言ってください」


 奏介は唇を引き結んだ。


「いや、大したことじゃないんだけど」


 彼は言った。


「ここ数日、姉と一緒にいてさ。昨日Xを見たときも、姉も見てたんだ」


 真紀。


 蓮の胸がわずかに動いた。


 奏介は肩をすくめ、少し困ったように笑った。


「それで、姉が俺に、君がこの件をどう考えているのか聞いてこいって。それから、移籍する気はないかとも」


 蓮は固まった。


 奏介は続ける。


「もし君が来るなら、あのマネージャーさんも一緒に来てもいいって言ってた」


 蓮は一瞬、何を考えればいいのかわからなかった。


 マネージャーごと引き抜けるとまで言うのは、普通の探りではない。自分にどれほどの価値があると見込まれているのか。それとも、高橋真紀があの大手事務所でどれだけの発言力を持っているのか。


「それは高橋が、君に伝えろと?」


「うん」


 奏介は人のよさそうな笑みを浮かべた。


「俺は、来てもいいと思うよ。うちの事務所、資源は本当に強いから」


 彼には真紀のような圧はなかった。蓮を追い詰めるつもりもない。ただ、蓮には力があり、もっと大きな場所へ行ったほうがいいのではないかと、素直に思っているだけだった。


 だからこそ、真紀へ向けるように即座に拒むことはできなかった。


「考えておきます」


 蓮はそう答えた。


 遠くから黒沢の声が飛んだ。


「奏介、さっきの場面をもう一回やるぞ」


「はい!」


 奏介は返事をし、蓮へ振り向いた。少し名残惜しそうな顔をしている。


 蓮は手を振った。


「先に行ってください。僕はもう少し台本を見ておきます」


「わかった。昼休みに合わせよう」


 仕事上の打ち合わせを断る理由はない。


 奏介の事務所は大きく、背後には高橋真紀がいる。良好な関係を保っておくことは、蓮にとって損ではなかった。



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