表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/44

喧騒のなかの孤島


 幸い、律は蓮が俳優だと知っていた。マンションに出入りするときもマスクをしていたし、服装も地味だった。


 だが盗撮アカウントにとって、事実などどうでもいい。


 彼らは、最もぼやけていて、最も意味深に見え、最も想像を煽れる場面だけを選び出す。それに、いちばん閲覧数を稼げそうな見出しをつけるのだ。


 蓮は三十分ほど読み続け、内容がほとんど同じだとわかった。


 匿名掲示板からの転載、週刊誌系ネット版の「独自追跡」、それをさらに切り貼りしたまとめアカウント。どれも写真や動画に大げさな字幕を載せ、「有名人の自覚がありながら男性と秘密同居」と書き立てていた。


 コメント欄もひどかった。


 性的指向そのものを攻撃する言葉がある。失望したと書く者もいる。本文を読まずに「同棲」「男友達」という単語だけを拾い、勝手に怒っている者もいた。


 最後まで見たころには、蓮はスマホを投げたくなっていた。


 それでも投げなかった。


「蓮、最近忙しい?」


 メッセージが一つ浮かんだ。


 送信者は森崎悠真だった。


 しばらく連絡していなかったせいか、その名前を見た瞬間、蓮は少しぼんやりした。数秒遅れて、ようやく相手の顔を思い出す。


「撮影中」


 彼は三文字だけ返した。


 そのあと、蓮はもう一度Xを開いた。


 公式声明のように、曖昧な広報文を書くつもりはなかった。律を見知らぬ相手にするつもりもない。自分が何も見ていないふりもしたくなかった。


 彼は自分の言葉で、数百字を一気に打ち込んだ。


 内容は単純だった。


 写真に写っている人物は友人であり、個人的な事情から一時的に自宅に滞在している。友人同士の助け合いを悪意で歪められるべきではない。誰の私生活も、盗撮動画や歪んだ見出しで消費されるべきではない。性的指向を理由にした攻撃には、反応もしないし、受け入れもしない。


 書き終えると、蓮は最初から最後まで読み直した。


 目立つ文法ミスはない。


 画面の上部に、また悠真からのメッセージが表示された。


「最近はちゃんと休んでね。映画が公開されたら絶対見に行くから、教えて」


 蓮は一瞥しただけで、まだ返事をしなかった。


 指先は投稿ボタンの上で止まっていた。


 灰色の小さなボタンが、境界線のように見える。


 押せば、事態がすぐによくなるとは限らない。むしろ悪くなるかもしれない。


 それでも数秒後、蓮は投稿した。


 投稿を終えると、すぐにXを閉じた。それから悠真のメッセージを開き直し、短く一文字だけ返す。


「うん」


 蓮はスマホを横に置き、ベッドへ戻った。


 昼間に寝すぎたせいなのか、それとも心に抱えたものが多すぎるせいなのか。その夜、彼は珍しく眠れなかった。


 ひどく眠いのに、目が冴えている。


 Xを見たい気持ちがある。けれど今開けば、きっと大混乱になっている。伊織や知らない番号からの電話も何度も鳴っていたが、彼は全部、寝ているふりをして無視した。


 自分の考えを投稿しただけだ。


 どうして、こんなことになるのだろう。


 何時ごろまで起きていたのか、蓮は覚えていない。最後は、ほとんど気絶するように眠った。



 翌朝、蓮は電話の連続着信で叩き起こされた。


 まだ意識がぼんやりしているまま、スマホを耳に当てる。


「もしもし?」


「蓮さん! よかった、やっと出てくれた!」


 伊織の声は、ほとんど裏返っていた。


「昨日の個人X、会社も見ました。上層部がかなり怒っています……説明が必要になると思います」


 蓮は数秒黙った。


 電話の向こうで、伊織が試すように呼ぶ。


「蓮さん?」


「説明することはないよ」


 蓮は起き上がり、重い目をこすった。


「言うべきことは、昨日ちゃんと言った。何かあるなら、僕に言えばいい」


「でも、蓮さん……」


 伊織は何か言いかけ、最後には重くため息をついた。


「一度、Xを見たほうがいいです」


 蓮は目を閉じた。


「わかった」


 通話を終えた時点で、昨夜の投稿がかなりの波紋を呼んだことはわかった。


 彼はベッドを出て身支度をし、ドアの外に置かれていた朝食を部屋へ入れた。食べながら、もう一度Xを開く。


 予想通り、通知はまともに読み込めないほど増えていた。


 上位には、悪意の強いコメントが並んでいる。


 私生活を叩く者。ファンを騙したと言う者。芸能界を引退しろとまで書く者。蓮の投稿をろくに読まず、恋人を認めたのだと勘違いして、「恋人がいるのに単身者ぶるな」と怒っている者もいた。


 もちろん、すべてが悪意ではなかった。


 擁護するファンもいた。


「友人が泊まっただけで恋人扱いするの、おかしい」


「性的指向は攻撃の理由にならない」


「たとえ本当に男性を好きでも、盗撮で晒される筋合いはない」


「佐伯蓮は友人だと言っているだけ。まず文章を読んで」


 三つの声が入り混じり、大きな騒ぎになっていた。


 そしてその騒ぎの真ん中で、佐伯蓮は舞台に押し上げられ、勝手に笑いものにされている。


 蓮は読み終えて、なぜか笑いそうになった。


 そのとき、スマホが鳴った。


 非通知だった。


 蓮は画面を一瞥し、会社の誰かだろうと判断して、スマホを横へ投げた。そのまま鳴り終わるのを待つ。


 十数秒後、着信は切れた。


 ベッドから降りようとした瞬間、また画面が光った。


 今度はメッセージだった。


「早乙女律だ。電話に出ろ」


 蓮ははっとした。


 律もこの数日、記者に囲まれて外に出られないのだろう。


 律から次の電話が来る前に、蓮は自分からかけ直した。


 通話がつながるなり、低く不機嫌な声が聞こえた。


「今、窓辺に立つだけで、向かいのビルからおまえの家に向けられたレンズが見える」


 蓮は一秒黙った。


 この状況で狗仔がいないほうが不自然だ。


「二日後には東京へ戻る」


「おまえの事務所は何もできないのか?」


 律の声が低くなる。


「このまま放っておくつもりか?」


「まだ対応を考えているはずだ」


「はず? まだ?」


 律の声が一気に上がった。


「佐伯蓮、おまえ、本気で事務所を変えたほうがいい。このままだと、あいつらに潰されるぞ」


 蓮は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


 すぐに解決したい気持ちはある。けれど小さな事務所の対応速度は、正直、頼りない。


「この件は事務所が解決する」


 律がまた怒らないように、蓮は「たぶん」という言葉を省いた。


 電話の向こうが少し静かになった。


 律も、これ以上説教しても無駄だと悟ったらしい。


「まあ、俺には口出しする権利はない」


「ただ、自分の将来のために、ちゃんと事務所と話し合え」


 蓮は低く返事をした。


「うん」


 電話を切ろうとしたところで、律がまた言った。


「それと、おまえのマネージャーが来るなら、食べ物を持ってこさせてくれ」


「このところ外に出られない。おまえの家にある食べ物は、ほとんどなくなった」


 最後の言葉には、律なりに飲み込んだ文句が滲んでいた。


 成人男性の住まいが多少散らかっているのは、まだいい。蓮は定期的に清掃サービスも頼んでいる。律が本当に受け入れがたいのは、家の中に保存食らしい保存食がほとんどないことだった。


 数日前に自分で買い込んでいなければ、俳優の家で飢え死にしかねなかった。


 蓮は眉間を揉んだ。


「わかった。伊織に伝えておく」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ