喧騒のなかの孤島
幸い、律は蓮が俳優だと知っていた。マンションに出入りするときもマスクをしていたし、服装も地味だった。
だが盗撮アカウントにとって、事実などどうでもいい。
彼らは、最もぼやけていて、最も意味深に見え、最も想像を煽れる場面だけを選び出す。それに、いちばん閲覧数を稼げそうな見出しをつけるのだ。
蓮は三十分ほど読み続け、内容がほとんど同じだとわかった。
匿名掲示板からの転載、週刊誌系ネット版の「独自追跡」、それをさらに切り貼りしたまとめアカウント。どれも写真や動画に大げさな字幕を載せ、「有名人の自覚がありながら男性と秘密同居」と書き立てていた。
コメント欄もひどかった。
性的指向そのものを攻撃する言葉がある。失望したと書く者もいる。本文を読まずに「同棲」「男友達」という単語だけを拾い、勝手に怒っている者もいた。
最後まで見たころには、蓮はスマホを投げたくなっていた。
それでも投げなかった。
「蓮、最近忙しい?」
メッセージが一つ浮かんだ。
送信者は森崎悠真だった。
しばらく連絡していなかったせいか、その名前を見た瞬間、蓮は少しぼんやりした。数秒遅れて、ようやく相手の顔を思い出す。
「撮影中」
彼は三文字だけ返した。
そのあと、蓮はもう一度Xを開いた。
公式声明のように、曖昧な広報文を書くつもりはなかった。律を見知らぬ相手にするつもりもない。自分が何も見ていないふりもしたくなかった。
彼は自分の言葉で、数百字を一気に打ち込んだ。
内容は単純だった。
写真に写っている人物は友人であり、個人的な事情から一時的に自宅に滞在している。友人同士の助け合いを悪意で歪められるべきではない。誰の私生活も、盗撮動画や歪んだ見出しで消費されるべきではない。性的指向を理由にした攻撃には、反応もしないし、受け入れもしない。
書き終えると、蓮は最初から最後まで読み直した。
目立つ文法ミスはない。
画面の上部に、また悠真からのメッセージが表示された。
「最近はちゃんと休んでね。映画が公開されたら絶対見に行くから、教えて」
蓮は一瞥しただけで、まだ返事をしなかった。
指先は投稿ボタンの上で止まっていた。
灰色の小さなボタンが、境界線のように見える。
押せば、事態がすぐによくなるとは限らない。むしろ悪くなるかもしれない。
それでも数秒後、蓮は投稿した。
投稿を終えると、すぐにXを閉じた。それから悠真のメッセージを開き直し、短く一文字だけ返す。
「うん」
蓮はスマホを横に置き、ベッドへ戻った。
昼間に寝すぎたせいなのか、それとも心に抱えたものが多すぎるせいなのか。その夜、彼は珍しく眠れなかった。
ひどく眠いのに、目が冴えている。
Xを見たい気持ちがある。けれど今開けば、きっと大混乱になっている。伊織や知らない番号からの電話も何度も鳴っていたが、彼は全部、寝ているふりをして無視した。
自分の考えを投稿しただけだ。
どうして、こんなことになるのだろう。
何時ごろまで起きていたのか、蓮は覚えていない。最後は、ほとんど気絶するように眠った。
翌朝、蓮は電話の連続着信で叩き起こされた。
まだ意識がぼんやりしているまま、スマホを耳に当てる。
「もしもし?」
「蓮さん! よかった、やっと出てくれた!」
伊織の声は、ほとんど裏返っていた。
「昨日の個人X、会社も見ました。上層部がかなり怒っています……説明が必要になると思います」
蓮は数秒黙った。
電話の向こうで、伊織が試すように呼ぶ。
「蓮さん?」
「説明することはないよ」
蓮は起き上がり、重い目をこすった。
「言うべきことは、昨日ちゃんと言った。何かあるなら、僕に言えばいい」
「でも、蓮さん……」
伊織は何か言いかけ、最後には重くため息をついた。
「一度、Xを見たほうがいいです」
蓮は目を閉じた。
「わかった」
通話を終えた時点で、昨夜の投稿がかなりの波紋を呼んだことはわかった。
彼はベッドを出て身支度をし、ドアの外に置かれていた朝食を部屋へ入れた。食べながら、もう一度Xを開く。
予想通り、通知はまともに読み込めないほど増えていた。
上位には、悪意の強いコメントが並んでいる。
私生活を叩く者。ファンを騙したと言う者。芸能界を引退しろとまで書く者。蓮の投稿をろくに読まず、恋人を認めたのだと勘違いして、「恋人がいるのに単身者ぶるな」と怒っている者もいた。
もちろん、すべてが悪意ではなかった。
擁護するファンもいた。
「友人が泊まっただけで恋人扱いするの、おかしい」
「性的指向は攻撃の理由にならない」
「たとえ本当に男性を好きでも、盗撮で晒される筋合いはない」
「佐伯蓮は友人だと言っているだけ。まず文章を読んで」
三つの声が入り混じり、大きな騒ぎになっていた。
そしてその騒ぎの真ん中で、佐伯蓮は舞台に押し上げられ、勝手に笑いものにされている。
蓮は読み終えて、なぜか笑いそうになった。
そのとき、スマホが鳴った。
非通知だった。
蓮は画面を一瞥し、会社の誰かだろうと判断して、スマホを横へ投げた。そのまま鳴り終わるのを待つ。
十数秒後、着信は切れた。
ベッドから降りようとした瞬間、また画面が光った。
今度はメッセージだった。
「早乙女律だ。電話に出ろ」
蓮ははっとした。
律もこの数日、記者に囲まれて外に出られないのだろう。
律から次の電話が来る前に、蓮は自分からかけ直した。
通話がつながるなり、低く不機嫌な声が聞こえた。
「今、窓辺に立つだけで、向かいのビルからおまえの家に向けられたレンズが見える」
蓮は一秒黙った。
この状況で狗仔がいないほうが不自然だ。
「二日後には東京へ戻る」
「おまえの事務所は何もできないのか?」
律の声が低くなる。
「このまま放っておくつもりか?」
「まだ対応を考えているはずだ」
「はず? まだ?」
律の声が一気に上がった。
「佐伯蓮、おまえ、本気で事務所を変えたほうがいい。このままだと、あいつらに潰されるぞ」
蓮は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
すぐに解決したい気持ちはある。けれど小さな事務所の対応速度は、正直、頼りない。
「この件は事務所が解決する」
律がまた怒らないように、蓮は「たぶん」という言葉を省いた。
電話の向こうが少し静かになった。
律も、これ以上説教しても無駄だと悟ったらしい。
「まあ、俺には口出しする権利はない」
「ただ、自分の将来のために、ちゃんと事務所と話し合え」
蓮は低く返事をした。
「うん」
電話を切ろうとしたところで、律がまた言った。
「それと、おまえのマネージャーが来るなら、食べ物を持ってこさせてくれ」
「このところ外に出られない。おまえの家にある食べ物は、ほとんどなくなった」
最後の言葉には、律なりに飲み込んだ文句が滲んでいた。
成人男性の住まいが多少散らかっているのは、まだいい。蓮は定期的に清掃サービスも頼んでいる。律が本当に受け入れがたいのは、家の中に保存食らしい保存食がほとんどないことだった。
数日前に自分で買い込んでいなければ、俳優の家で飢え死にしかねなかった。
蓮は眉間を揉んだ。
「わかった。伊織に伝えておく」




