同居スキャンダル
「いったい何があったの?」
蓮は伊織の腕を引き、撮影現場の外側にある廊下へ連れ出した。
長野郊外の撮影地は静かだった。遠くではスタッフが大道具を動かす音が聞こえている。そのぶん、伊織の顔に浮かんだ動揺は、余計にはっきり見えた。
伊織は中にいるスタッフたちに聞こえないよう、声を落とした。
「今、Xといくつかの週刊誌系ネット版で、蓮さんが男を好きだとか、別の男と同棲してるとか、そんな話が出回ってます」
彼は怒りを押し殺した声で、スマホを蓮の前に差し出した。
「その人が蓮さんのマンションに出入りしている写真と動画が撮られています」
蓮は視線を落とした。
画面には、ぼやけた盗撮写真が映っていた。早乙女律がマスクをつけ、買い物袋を提げて、蓮の住むマンションのエントランスから出てくる写真だった。撮影角度は、明らかに向かい側の高層階からだ。別の動画では、律が何度も出入りする時間までまとめられている。
見出しは、どれも煽情的だった。
「佐伯蓮、秘密の同棲相手か」
「人気新人俳優、私生活は乱れ気味?」
「受賞後、謎の男性が頻繁に出入り。事務所は沈黙」
伊織の声が震えた。
「ひどすぎます」
伊織は当事者ではない。それでも、蓮が黒い噂で叩かれ、盗撮され、悪意で切り取られるのを、ずっとそばで見てきた。だからこそ、画面に並ぶ見出しとコメントが許せなかった。
この話が出た直後、事務所は大混乱になったらしい。
広報チームは最初、写真の男を不審者、あるいは住居周辺に現れた盗撮目的の人物として処理するつもりだった。蓮は写真の人物を知らない、マンションの安全管理については事務所も協力して確認する。そんな声明文まで用意していた。
「蓮さん」
伊織は必死に冷静な声を作った。
「声明はもう準備しています。会社としては、まずその人を不審者扱いにして、マンションの安全確認に話を持っていくつもりです。蓮さんは心配しないでください」
蓮は伊織を見た。
その表情には、少しばかり気まずさがあった。
「不審者じゃない」
伊織が固まった。
蓮は数秒黙り、結局、正直に言った。
「前に話しただろう。僕の家に少し泊まっている友人だ」
その一言で、伊織の表情は完全に止まった。
「蓮さん……」
会社では緊急会議が開かれていた。誰もが、蓮は写真の男を知らないと思っていたからこそ、「盗撮」「不審者」「マンションの安全問題」として処理できるはずだった。だが、蓮本人が知り合いだと認めてしまえば、話はまったく違ってくる。
「彼はただの友人だよ」
蓮は伊織を見た。
「知り合いなのは事実だけど、ネットに書かれているような関係じゃない」
伊織は口を開いたが、すぐに言葉を失った。
蓮は、そういう人間だった。他人にどう思われるかを気にしないし、世間に合わせるために嘘をつくことも好まない。けれどこの件は、「友人です」の一言で済むほど単純ではない。
外ではすでに、蓮と律は秘密の同棲恋人として扱われている。知り合いだと認めれば、「同棲」という言葉だけが一人歩きする。知らないと言えば、律を見知らぬ不審者や泥棒扱いすることになる。
蓮がそんなことをするはずがない。
「でも、蓮さん……」
伊織は苦しそうに言った。
「認めたら、余計に説明が難しくなります」
蓮は眉を寄せた。
伊織の言いたいことはわかっていた。もう十代の子どもではない。事実を言えば世間が自動的に信じてくれるほど、世の中は甘くない。
それでも、律を見知らぬ人物として切り捨てることはできなかった。
「今夜、僕の個人Xで説明する」
伊織の顔色が変わった。
「蓮さん」
彼が止めようとした瞬間、蓮は手を上げて遮った。
「もういい」
「この件は僕が自分で解決する」
「でも……」
「でもはなし」
蓮の声は静かだった。
「どうせいつかは大勢の前で説明しなきゃいけない。それなら、今はっきり言う」
伊織は焦って眉を寄せた。
「今は危険すぎます。会社も絶対に認めません」
蓮は少し身を寄せ、声をさらに低くした。
「この件は、まだ会社に言わないで」
「今夜、僕が個人Xに投稿する」
「それはよくないですよ、蓮さん……」
「あとで会社に聞かれたら、僕には伝えたと言えばいい」
蓮は台本を手に取った。
「まだ撮影が残ってる。戻るよ」
伊織はまだ何か言いたそうだったが、蓮はもう背中を向けていた。
「……はあ」
伊織は廊下に立ち尽くし、最後には諦めて撮影地を出た。
蓮が現場へ戻ると、何人もの視線がこちらへ向いた。
その中には疑問もあれば、好奇心もあった。隠そうともしない探るような目もある。芸能界の噂は回るのが早い。まして「私生活」「同性」「同棲」という言葉がついたニュースは、火種が乾いた草に落ちるように広がっていく。
「すみません。事務所から急ぎの連絡がありました」
蓮は軽く頭を下げた。
視線を一巡させたとき、高橋真紀が少し離れた場所に立っているのが見えた。
彼女もこちらを見ていた。
その目に驚きはない。むしろ、薄く笑っているようにすら見えた。
蓮の胸が沈む。
真紀。
なぜだか、この件に彼女が無関係だとは思えなかった。彼女の背後には大手芸能事務所がある。まだ完全に足場を固めたわけでもない新人俳優を潰すために、そこまでやるだろうか。
それでも、完全に関係がないとも思えない。
なにしろ彼女は、前日に蓮へ移籍を持ちかけている。
「佐伯君?」
黒沢航監督が部屋から出てきて、周囲が蓮を見ていることに気づいた。
「さっきは急に出ていったけど、何かあったの?」
「事務所から急ぎの連絡がありました」
蓮は頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
黒沢は手を振った。
「いいよ」
それから周囲を見回す。
「何を見てるんだ。準備に戻って」
スタッフたちはようやく散っていった。
黒沢は蓮を少し脇へ呼んだ。
「今日の君の分は、だいたい終わりだ。いちばん大事なシーンは明日になる。今夜はゆっくり役を詰めておいて」
彼は蓮の肩を軽く叩いた。
「この役を君に任せた時から、うまくやれると思っていたよ」
蓮は苦笑した。
「黒沢監督、そんなふうに言われると、かえってプレッシャーがかかります」
相原透という精神の均衡を失った殺人犯は、映画全体で出番が多いわけではない。けれど物語の鍵になる人物だった。やりすぎればただの狂人に見える。抑えすぎれば、危うさも圧も失われる。
黒沢は笑って、今日はもう上がっていいと示した。
蓮は荷物をまとめ、撮影所を出て、旅館へ向かって歩いた。
劇組は今回の撮影のため、近くのホテルと数軒の旅館を押さえていた。ホテルは現場からやや遠く、旅館のほうが近い。蓮は翌朝早くから撮影があるため、そこに一時的に泊まっていた。
部屋に戻ると、蓮はカードキーを受け取り、ドアを開けた瞬間、ベッドへ倒れ込んだ。
今日は身体を酷使したわけではない。それでも、精神は限界に近かった。撮影への集中、突然の炎上、誰かに見られているような空気。そのすべてが、部屋に入った瞬間に重くのしかかった。
寝返りを打つと、枕元にあの奇妙なサーカスのぬいぐるみが置かれていた。
清司が残していったものだ。
蓮はそれを見つめ、ほとんど音にならないため息を漏らした。
もう三、四日、清司に会っていない。
あいつは本当に朔と一緒に遠くへ行って、もう戻ってくるつもりがないのだろうか。
次に目を開けたとき、窓の外はすっかり暗くなっていた。
スマホには午後八時と表示されている。
蓮は起き上がって顔を洗った。ドアを開けると、廊下のワゴンに夕食が置かれている。劇組の助理が、彼が食事を逃したことを気にして届けてくれたのだろう。
一日ほとんど食べていなかったせいで、食事の匂いはいつもよりずっと魅力的だった。
蓮はワゴンを部屋に入れ、珍しくきれいに食べきった。それからベッド脇を数分歩いて胃を落ち着かせ、ようやくスマホを手に取り、Xを開いた。
数日見ないあいだに、通知もDMもひどい量になっていた。
ホームには、ほとんど蓮と律の写真ばかりが並んでいる。さらに悪質なものでは、律がマンションへ出入りする動画を切り貼りし、「同棲証拠まとめ」とまで書いていた。
蓮は一つずつ下へスクロールした。
眉間の皺が、少しずつ深くなっていく。
「この人たち……」
彼らは、見出しが誰かの人生を傷つけるかどうかなど気にしていない。撮られた側にも生活があり、守るべき距離があることも気にしない。ただ刺激的で、拡散されて、コメントが稼げれば、それでいいのだ。




