突発事態
「冗談なら、今の話は聞かなかったことにします」
蓮は水を大きく飲んだ。
胸の中の揺れを押し込めるように。
相手がどれほど軽く言っているように見えても、蓮は真剣に返さなければならない。今、立場が弱いのは彼のほうだった。
けれど、高橋真紀は気軽に冗談を言うような人間ではなかった。
「私が冗談を言っているように見える?」
蓮はしばらく黙った。
「失礼しました」
この状況で何を返すべきか、本当にわからなかった。
真紀は両手を組み、テーブルに置いた。足を優雅に組み、すでにすべてのカードを用意してきた人間の顔をしている。
「海外研修の機会を用意できる」
彼女は蓮を見た。
「海外の俳優や監督と関わることも、遠い話ではなくなる。あなたが望むなら、将来的に演出や制作も学べる」
蓮の目がわずかに動いた。
確かに、それは彼の弱い部分を突いていた。
蓮は芝居がしたい。いつかは自分でも作品を撮ってみたい。けれど今の小さな事務所では、資源が限られている。危機対応ですらぎこちなかった。海外研修や国際的な仕事など、今の環境では簡単に見えない。
真紀は、蓮が揺れたことを当然見逃さなかった。
言葉を続ける。
「こういう機会は、将来あなたが自力で手に入れる可能性もあるでしょう。もちろん、十分な実力と、十分な運が必要だけれど」
「でも、うちに来れば、その可能性を限りなく百パーセントに近づけられる」
さらに重みを足すように、彼女は言った。
「今の事務所との契約問題は、こちらで処理する。違約金もこちらが負担する。あなたに返済させるつもりはない」
蓮はようやく顔を上げた。
これは思いつきの引き抜きではない。
最初から準備された条件だった。
真紀の背後にある事務所なら、それを実行する力もある。
蓮の頭の中に、いくつもの場面がよぎった。
事務所が出したテンプレートのような声明。黒い噂が拡散したときの混乱。高村が会食で見せた越界。伊織があの日、言いたくても言えなかった表情。そして、会社が何度も広告を受けるよう迫ってきたこと。
もし頷けば、いろいろな問題は一気に簡単になる。
大きな舞台。
専門的なチーム。
良質な資源。
さらには、彼が嫌悪している人間たちからも距離を置ける。
休憩室は静かだった。
真紀は急かさなかった。
彼女は交渉を知っている。
この条件を前にすれば、冷静な芸能人ほど動揺する。自分の立場と、今後の制限を理解している者なら、なおさらだ。
長い沈黙のあと、蓮は水筒を置いた。
「高橋さん」
「このお誘いは、受けられません」
真紀の表情が、初めて少し変わった。
「私の誘いを受けられないの?」
指先がテーブルを軽く叩く。
「それとも、条件を受け入れられないの?」
蓮は首を横に振った。
すぐには説明しなかった。
真紀は彼を見つめ、目に本当の興味を浮かべる。
「言いたいことがあるなら言って。人材のために一定の譲歩をするのは、悪いことではないわ」
彼女は、蓮が条件を出してくる準備をしていた。
けれど蓮は静かに彼女を見るだけだった。
「あなたの誘いも、条件も、どちらも受けません」
彼は言った。
「だから、理由を話す必要はないと思います」
真紀は数秒黙った。
そして、ふっと笑う。
「こういう機会を捨てる人は、あまり見たことがないわ」
彼女は立ち上がった。
「正直、あなたの天秤の反対側に何が載っているのか、私には想像できない」
蓮は答えなかった。
天秤の反対側に何があるのか。
自分でもわからない。
伊織かもしれない。
まだ片づいていない高村の件かもしれない。
清司が消え、自分の感情が乱れているこのタイミングで、あまりにも綺麗な条件に連れていかれたくなかっただけかもしれない。
あるいは、不器用で未熟な小さな事務所から、もっと巧妙に人を管理する大きな機械へ移ることに、本能的な拒否感があったのかもしれない。
真紀は扉の前で振り返った。
「でも、私はまだ、あなたが自分から私を訪ねてくると思っている」
蓮は微かに笑った。
返事はしなかった。
真紀が出ていったあと、蓮は休憩室に少し残った。
やがて台本を取り、撮影現場へ戻る。
その後の二日間、撮影は順調に進んだ。
そして、蓮が相原透の精神が崩壊した場面を撮る番が来た。
その場面では、蓮が演じる相原透が、ヒロインの坂井莉央を人質に取る。手にしたナイフは彼女の首筋のすぐそばにあった。透は反派に追い詰められ、理性、恐怖、憎悪が混ざり合い、被害者でありながら本物の怪物にも見える状態になっている。
「へへ……」
蓮は小道具のナイフを握り、刃の背を坂井の首筋に沿わせてゆっくり滑らせた。
顔に浮かぶ笑みは歪み、目は空虚で狂気を帯びている。声は低く抑えられていた。
「俺に、わかると思うのか……」
現場が一瞬で静まり返る。
近くにいたスタッフまで、無意識に息を止めた。
黒沢監督はモニターの後ろで画面を見つめていた。蓮の表情と間の取り方はとてもいい。笑い方、目線、刃を動かす速さ。どれも背筋を冷やす力がある。
しかし、まだ足りない。
「カット」
監督が止めた。
蓮はすぐに手を離し、坂井の様子を確認する。
「大丈夫ですか?」
坂井は首を横に振った。顔色はまだ少し白い。
「大丈夫です。ただ、今のは本当に少し怖かったです」
蓮は彼女に軽く頭を下げてから、監督のところへ行った。
「黒沢監督、どこが違いましたか?」
黒沢はモニターを見たまま、すぐには答えなかった。
「外側の状態はとてもいい」
彼は言った。
「狂気、危険さ、圧迫感。そこは出ている」
蓮は真剣に聞いている。
「ただ、もうひとつ足りない」
「何が足りませんか」
黒沢は蓮を見上げた。
「この人は、狂いたくて狂っているわけじゃない。追い詰められて、もう道がない人間だ。観客には彼を怖がらせながら、同時に、彼が本当に逃げ場を失ったことも見せたい」
「今の君は危険を出せている。でも、最後にひとつの思いだけが残った空洞までは、まだ届いていない」
蓮は台本を見下ろした。
追い詰められて、ひとつの思いだけが残る。
彼は昨夜の夢で聞いた清司の声を思い出した。
そして、自分が台詞を読んだとき流した涙も思い出す。
考えを続ける前に、撮影所の外から騒ぎが聞こえた。
「すみません、中には入れません!」
「こちらは撮影中です――」
「本当に急ぎなんです!」
蓮ははっと顔を上げた。
その声は伊織だった。
彼は台本を近くのスタッフに預け、足早に外へ向かう。
伊織は入口で二人のスタッフに止められていた。顔色は青白く、額には汗が浮かんでいる。蓮の姿を見た瞬間、やっと救いを見つけたように声を上げた。
「蓮!」
蓮はまずスタッフへ頷いた。
「僕のマネージャーです」
スタッフはようやく手を離した。
蓮は伊織を横へ連れていき、声を低くする。
「撮影中は、終わるまで待ってって言ったはずだろ」
「どうして直接入ってきたんだ」
伊織は息が乱れていて、目もひどく泳いでいた。
「蓮、大変なことになった」




