魅力的な条件
夜、蓮は誰かに名前を呼ばれた。
「蓮」
「蓮、起きろ。伝えたいことがある」
目を開ける。
ベッドのそばには誰もいなかった。
声を出そうとしたが、口を開いても音が出ない。
誰だ。
「話さなくていい」
声はなおも響く。
「おまえが何を聞きたいかはわかっている」
「俺を見ろ。そばにいる」
蓮はゆっくり横を向いた。
枕元には、あの妙なサーカスのぬいぐるみが置かれている。
ぬいぐるみは動かない。
けれど、清司の声は確かにそこから聞こえていた。
「見えるか」
「俺だ。清司だ」
清司。
「そうだ」
声はいつもより低く、遠かった。
「俺は朔と戻る。あいつはひとりでは隠り世へ帰れない。俺が手を貸さなければならない」
蓮は尋ねたかった。
それなら、君は戻ってくるのか。
けれど声が出ない。
清司。
清司。
白銀清司。
「清司!」
蓮ははっと目を覚まし、ベッドから身を起こした。
呼吸が荒い。
額には冷や汗がびっしり浮かんでいた。
布団は汗で少し冷たくなっている。蓮はそれを握りしめ、見慣れた布の感触から少しでも現実を取り戻そうとした。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてくる。
彼は枕元のぬいぐるみを見た。
少なくとも今は、清司が何を伝えたかったのか理解できた。
あの妖狐は、あの日なぜ黙って消えたのかを説明したのだ。
蓮はぬいぐるみを手に取り、数秒見つめた。笑いたいような気がした。けれど笑みになる前に、胃がきゅっと痛む。
腹を押さえ、顔色がわずかに白くなる。
一日中神経を張りつめさせ、夜もろくに食べていない。身体が抗議しているのだろう。
病気にしたくはない。
今の最善は、眠ることだった。
明日起きたら、ちゃんと食べる。それから長野の撮影へ行く準備をする。
清司が朔のためにこの世界を離れたのだとわかった以上、自分も自分の仕事に戻るべきだった。
翌日、蓮は自然に目を覚ました。
珍しく二度寝しなかった。
部屋を出ると、マンション全体が静かだった。もうひとりの臨時同居人は、まだ眠っているのだろう。蓮は音を立てないようにして、簡単な朝食を作った。目玉焼きトースト、粥、牛乳。
食べ終わると荷物をまとめ、茶卓に律宛てのメモを残した。
律にはトレーニングの予定がある。蓮は念のため、現金とマンションの予備カードも置いておいた。律が金に困るようには見えないが、自分の家で不自由させたくはなかった。
伊織はすでに下で待っていた。
徹夜でもしたのか、顔色がひどく疲れている。蓮を呼ぶ声にも、いつもの元気がなかった。
「昨夜、あまり寝ていない?」
蓮が尋ねる。
伊織は頷き、こらえきれず欠伸をした。
「最近、仕事が多すぎます。返事をもらえない広告会社が、かなり不満を持っていて」
蓮は眉をひそめた。
広告は、そもそも双方が納得して受けるものだ。
この業界に俳優が自分ひとりしかいないわけでもない。
伊織が説明する。
「蓮の熱度が、少し前かなり高かったからです。今このタイミングで広告をいくつも断ると、向こうは蓮が傲慢になったと思うんです」
「好きに思わせておけばいい」
蓮は車窓に身を預けた。
「長野から戻ってから考える」
「わかりました」
蓮の出番はまだ先だったため、彼は少し遅れて現場へ向かった。
約束の時間に長野県松本市郊外へ着いたころには、もう夕方だった。
遠くから、撮影所の入口に立つふっくらした人影が見えた。車を降りてみると、以前打ち合わせをした黒沢航監督だった。
「佐伯君、やっと来たね」
黒沢は笑って迎えた。
蓮はすぐに頭を下げる。
「黒沢監督、お待たせしてすみません」
伊織も監督に挨拶した。
「黒沢監督、それでは僕は先に戻ります」
そう言って去ろうとする。
蓮は空を見上げた。
「もう遅いけど」
伊織は心配の意味を理解し、首を横に振って疲れた笑みを浮かべた。
「大丈夫です。夜中に無理して運転するほど無謀じゃありません。今夜は近くのビジネスホテルに泊まって、明日東京へ戻ります」
「わかった」
伊織と別れ、蓮は荷物を持って劇組に入った。
今回の映画には、初めて共演する俳優が多かった。初日、黒沢は蓮を主要キャストに紹介した。中でも、後に対手戲が多くなる主演の高橋奏介とは、少し長く話すことになった。
奏介は温和な性格で、必要以上に偉ぶるところもない。数分台本について話しただけで、蓮は彼に悪くない印象を持った。
初日は充実していた。
映画はすでに半分ほど撮影が進んでおり、回想シーンがあるため蓮も一部撮影に参加した。最初は、現場の何人かが見物するような目で彼を見ていた。最近話題が多く、賞も取った俳優が、実際どれほどのものか見たいのだろう。
しかし、蓮が被害を受ける場面のもがき方を演じ終えたあと、周囲の視線は明らかに変わった。
「カット。休憩」
監督の声が響く。
蓮が奏介と次の場面について話していると、黒沢がふいに奏介を呼んだ。
「奏介、お姉さんが来たよ」
蓮は顔を上げた。
奏介の姉。
こんなタイミングで見学に来たのか。
監督が示す方向を見る。そこに立っていた有能そうな女性の姿を見て、蓮はわずかに固まった。
高橋真紀だった。
彼女は黒沢の隣に立ち、穏やかな笑みを浮かべている。ただ、その目が蓮に落ちた瞬間、笑顔の温度は少しだけ下がった。
奏介がそちらへ行き、小声で何か話した。
ほどなくして、真紀が蓮のほうへ歩いてくる。
「佐伯君」
蓮は立ち上がった。
「高橋さん」
「少し話せる?」
蓮は周囲を見た。
ここは撮影現場で、人の出入りが多い。私的な話には向いていない。真紀もそれを理解しているらしく、近くの仮設休憩室を指した。
「長くは取らせないわ」
蓮は頷いた。
ふたりが休憩室へ入ると、真紀は扉を閉め、最初から核心を突いてきた。
「うちの事務所に来る気はない?」
蓮は水筒を取ろうとした手を止めた。
彼女を見る。
突然すぎる話だった。
けれど真紀の態度は、ただ普通の仕事の話をしているように落ち着いていた。
「率直に言うわ。今の小さな事務所では、あなたの未来には限界がある」
彼女はテーブルのそばに腰を下ろす。姿勢には余裕があった。
「うちに来れば違う。私があなたを育てられる」
蓮は彼女を見たまま、すぐには答えなかった。




