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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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数日会わなかっただけなのに


 状況は急におかしなことになった。


 蓮はリビングのソファでコーヒーを飲んでいる早乙女律を見て、昨夜あっさり承諾したことを少し後悔した。


 律は、自分を不自由にさせるタイプではない。キッチンでコーヒー豆もインスタントも見つからないとわかると、持参した荷物から豆を取り出し、ごく自然に一杯淹れた。茶卓には使った器具と空の皿が並び、客廳には他人の生活の痕跡が増えている。


 律はコーヒーをひと口飲み、蓮の微妙な気まずさに気づいたようだった。


「用があるなら行ってください」


 彼は言った。


「留守番はできます」


 蓮は唇を軽く引き結んだ。


「会社へ台本を取りに行きます」


 律はカップを置く。


「朔は本当に戻ってくると思いますか」


 蓮は一瞬返事に詰まった。


 清司が戻ってくるのか、彼も知りたかった。


「戻ってきたら、わかるでしょう」


 ほとんど答えになっていない答えだった。


 律は彼を見た。ふたりはしばらく見つめ合い、互いの目に同じような無力感を見つけた。


 律には、蓮と清司の関係がよくわからない。自分と朔のようなものなのかと思ったこともある。けれど清司が消えたときの蓮は、表面上あまりにも平静だった。


 平静すぎて、少しも寂しそうには見えない。


「会社へ行ってください」


 律は言った。


「何もなければ外には出ません。電話番号を教えてください。スマホはマナーモードにしないで。何かあれば連絡します」


 蓮はその一連の指示に頭が痛くなりながらも、結局番号を残し、バッグを持って家を出た。


 伊織はマンションの外で待っていた。


 彼は蓮が出てくるのを見て、少し好奇心を隠せない顔をした。さっき電話したとき、蓮はわざわざ外で待つように言った。上がらないでほしい、と。


「蓮、家に誰か来てるんですか?」


 蓮は反射的に否定しようとした。


「いや……」


 途中で言い換える。


「友人です。数日泊まることになりました。人見知りなので、外で待ってもらいました」


 伊織は笑った。


「まさか女の子じゃないですよね?」


 蓮は助手席に乗り込み、彼を白い目で見た。


「何を考えてるんだ。こんな時期に女性を家へ泊めるわけないだろ」


 伊織も、言われてみればその通りだと思ったらしく、笑って車を出した。


 道中、彼はしばらく迷ったあと、切り出した。


「蓮、広告の件、少し考えませんか」


 蓮は台本をめくっていた。


 監督から受け取った新しい脚本だ。出番は多くないが、監督が蓮に演じてほしいと名指しした役だった。事前に話し合ったとき、蓮はこの役に強く惹かれた。今日が正式な確認になる。


「考えていません」


 蓮は顔を上げない。


「会社に依頼が来ていますか」


「はい。会社は、いくつか受けてほしいようです」


 伊織は蓮を見る。


「今は人気がかなり戻ってきています。このタイミングで合う商業案件をいくつか受ければ、露出を安定させられます。朝比奈旭も最近はトラブルがありましたが、今また必死に芝居と広告を詰め込んでいます。真紀さんも、彼の再設計を進めているそうです」


 蓮は台本を閉じた。


「断ってください」


 伊織はまだ説得しようとする。


「蓮……」


「広告に頼らなければ生活できないところまでは来ていません」


 蓮は遮った。


「それより今は、台本に興味があります。最近いろいろありすぎたので、少し息をしたい」


 正しいとされる言葉は、もうたくさん聞いた。


 もっとよくなるため。忘れられないため。露出を維持するため。会社を満足させるため。長いあいだ、彼はそういう正解のために生活を選んできた。


 今は、少しくらい自分の意思を優先したかった。


「上まで送らなくていいです。自分で帰ります」


 蓮は台本を手に取った。


「数日後には長野で撮影があります。長くは滞在しないので、ずっとついていなくて大丈夫です」


 伊織は頷くしかなかった。


「わかりました」


 少し間を置く。


「本当に、部屋の片づけを手伝いに行かなくていいですか?」


「必要ありません」


 蓮は車を降り、伊織と別れてマンションへ戻った。


 玄関を開けると、律はまだソファでテレビを見ていた。茶卓には空の皿が二枚あり、空気には食事を終えたばかりの匂いが残っている。


 蓮は壁時計を見る。


 午後五時。


 今、食べ終わったのだろうか。


「夜はどこで寝ればいいですか」


 律は自然に尋ねた。


 蓮はソファへ沈み込み、二階を指す。


「客室です。階段を上がって左、二番目の部屋」


 律が立ち上がる。


 そのとき、蓮は思い出して声をかけた。


「そうだ」


「数日後、長野で撮影があります。長くは離れませんが、その間はひとりでここにいてもらうことになるかもしれません」


 律は頷いた。


「わかりました」


 それ以上何も言わず、二階へ上がっていく。


 数分後、リビングには蓮だけが残された。


 茶卓の空皿を見て、蓮は大きく息を吐いた。呆れながらも、結局立ち上がって皿を台所へ運ぶ。


 片づけを終えると、部屋へ戻った。


 まるで自分に一分の空白も与えたくないように、会社から持って帰った台本を開く。


 今回の役は面白かった。


 蓮が演じるのは、精神的に崩壊した殺人犯だ。出番は二十分ほどしかない。最後は主人公に病室で撃たれて死ぬ。もともとは普通の人間だったが、映画の中の反派に追い詰められ、少しずつ壊れて犯罪へ向かう。


 非常に扱いの難しい役だった。


 観客は彼の犯した悪に怒りながらも、彼が受けた苦しみにも胸を痛める。そういう人物を演じなければならない。


 蓮にとって、これは挑戦だった。


 彼は最後の数ページを開き、低く台詞を読む。


「……僕が望んだと思っているのか?」


「望んでなんかいない」


「長いあいだ、会えなかった」


「会いたかった」


「本当に……会いたかった」


 最後の一言を読み終えたあと、蓮はゆっくり我に返った。


 反射的に、自分の頬へ触れる。


 指先が少し濡れていた。


 泣いていたのか。


 蓮はベッドの端に座ったまま、長いあいだ動かなかった。


 あの一瞬、彼が感じたのは思慕だった。


 役のものではない。


 自分自身のものだった。


 清司と会わなくなって、まだ数日しか経っていない。


 たった数日。


 それなのに、蓮はもう彼を恋しく思っていた。




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