すぐそばに
律が目を覚ますと、家の中は不自然なほど静かだった。
この数年で、家に自分ひとりしかいないのは初めてだった。たった数時間会っていないだけなのに、朔が突然いなくなった事実に、身体が慣れない。必要なことをしに行ったのだとわかっていても、不快感は消えなかった。
まして自分には何もできない。ただここで待つしかない。それがいっそう苛立ちを強くした。
一方そのころ、蓮は寝室から出て、空のグラスを持ってリビングへ向かった。
ソファには清司が座っていた。手には小さなぬいぐるみを持っている。
そのぬいぐるみは、かなり奇妙な見た目だった。普通のマスコットにも、かわいいキャラクターにも見えない。丸い身体、やけに大きな目、背中に縫いつけられた変な羽。巡回サーカスが宣伝用に配っていそうなグッズだった。
「それ、何?」
蓮は眉をひそめた。
「どこで手に入れたの?」
清司はちらりと彼を見た。
「本当に東京で暮らしているのか疑うな。最近、市内に巡回サーカスが来ている。そこらじゅう宣伝だらけだ」
蓮は清司の手のぬいぐるみを疑わしげに見る。
「まさか、お金を払っていないとか」
「払ったに決まっている」
「お金、持ってるの?」
「……」
蓮はその表情だけで、だいたい答えを理解した。
「無料配布だ」
清司の声は少し不自然だった。
蓮は眉を上げた。あまり信じていない顔だった。
とはいえ、ぬいぐるみ一つで言い争う気はない。それよりも、蓮には清司へ伝えたいことがあった。
「そうだ――」
「待て」
清司が突然遮った。
蓮は顔を上げる。
「どうした?」
清司は立ち上がった。珍しく真剣な顔をしている。
「今、朔を感じた」
蓮の指先が、ほんのわずか止まる。
「探しに行くの?」
「遠い。正確には掴めない」
そう言いながら、清司は蓮を見た。
「少し探してくる。すぐ戻る」
言い終える前に、彼の姿は消えていた。
蓮は空になったソファを見つめた。
胸に、説明のつかない感情が浮かぶ。
本当は、数日後に映画の撮影で長野県松本市郊外へ行くことを伝えるつもりだった。風景のいい場所で、出番も多くない。東京で見つからないなら、場所を変えれば何か手がかりがあるかもしれない。ついでに清司を連れて行くこともできると思っていた。
けれど、言い終える前に清司は行ってしまった。
蓮は肩をすくめ、ソファへ腰を下ろした。
背後を冷たい気配がかすめる。
振り返ると、窓が開いていた。今日はほとんど風がないはずなのに、と不思議に思いながら、蓮は立ち上がって窓を閉めた。
振り返る瞬間、彼は気づかなかった。
窓の外に、ひとりの影が立っていたことに。
やや長い黒髪。外見と合わないほど冷えた黒い瞳。彼はガラス越しに蓮の背中を数秒見つめ、何かを確かめるように目を細めた。
この人間には、清司の気配がある。
けれど清司ではない。
朔は、自分が本当に探しているものを見つけられなかった。
次の瞬間、彼は清司と同じように窓の外から消えた。
もし清司がこの場に残っていれば、必ず彼を認識しただろう。
蓮はリビングへ戻り、数日前に書店で買った『沈溺』を手に取った。
数ページ読んでみると、森崎悠真が以前書いていた推理小説とはまったく違う作品だった。新作は、作曲家を目指す歌手と漫画家の物語だ。ふたりは書店で出会う。歌手は仕事と歌以外の時間に図書館へ通い、時々漫画も読む。漫画家はその歌手の熱心なファンだった。
表紙には「上巻」と書かれている。
蓮は、完結していない物語を読むのがあまり好きではない。それでも、知り合いの本だから買った。売上に少しでもつながればいいと思ったのだ。
恋愛小説にはあまり興味がなかった。数ページで、以前の刑事もののような緊張感がないことに気づき、すぐに読む気が薄れた。
彼は本を脇へ置き、リモコンを手に取った。
テレビをつけようとした瞬間、半空に白い影が現れる。
「また何も見つからなかった?」
清司は頷いた。顔色はあまりよくない。
彼は蓮の隣へ来て座りかけたが、ふいに窓のほうを鋭く見た。
次の瞬間、窓辺へ飛ぶように移動し、荒っぽく窓を開け放つ。
外には何もなかった。
蓮は驚いた。
「何?」
「誰か来ていた」
蓮は眉を寄せる。
「朔が来たってこと?」
さっき自分がその窓を閉めたことを思い出し、背中にぞくりと冷たいものが走った。
清司は窓の外を見つめている。
「さっき離れた。俺が戻るのを感じて、すぐ去ったんだろう」
「さっきの気配は、確かに朔だった」
独り言のように続ける。
「なぜ俺が追うと消える」
蓮はその様子を見て、最後には小さく首を振った。
「わからないなら、見つけたときに聞けばいい」
今度こそ清司に遮られたくなくて、蓮は先に話を切り出した。
「それと、もうひとつ言っておくことがある」
清司が振り向く。
「何だ」
「数日後、長野県松本市郊外で映画の撮影がある。しばらく劇組と一緒に向こうへ行く」
蓮は少し間を置いた。
「東京で見つからないなら、場所を変えれば手がかりがあるかもしれない」
清司は彼を見て、急に意味ありげに笑った。
「俺を誘っているのか?」
蓮は一瞬固まった。
次の瞬間、腹立たしげに睨む。
「来たいなら来ればいい」
そう言い捨てて、部屋へ戻った。
清司はその背中を見ながら、ゆっくり唇を上げる。
次の瞬間、彼も蓮の部屋に現れた。
蓮は机で新しい台本を読んでいる。清司は近づき、足先で軽く蓮の足首をつついた。
「おい」
「今日一日、また家にいるつもりか?」
蓮は台本から顔を上げ、ゆっくり清司を見た。
そして何も言わず、寝返りを打って読み続けた。
部屋は静かになった。
清司は唇を引き結ぶ。
この人間は、すねると本当に面倒くさい。
彼は無理に話題を探した。
「さっき、あの小説家の本を読んでいたのに、もう台本に戻るのか」
「恋愛小説にはあまり興味がない」
「今日はサーカスがあるらしい」
清司は言った。
「見に行かないか」
蓮は目を上げて彼を見る。
どうして急にサーカスに誘うのか。
すぐに理由がわかった。
サーカス会場には人が多い。清司はまた朔を探しに行くつもりなのだろう。彼の朔を探すためなら、自分で行けばいい。なぜ蓮まで連れていこうとするのか。
「行かない」
拒絶はきっぱりしていた。
清司の眉が上がる。
「本当に行かないのか? 宣伝ポスターを見る限り、悪くなさそうだ」
蓮は布団を引き上げ、台本ごと背中を向けた。
今度は、返事もしなかった。




