眠れる恋人に、夜風の口づけを
郊外の別荘は、夜の水底のように静かだった。
早乙女律が浴室から出ると、宵宮朔は薄い毛布にくるまってソファに座っていた。長い髪が肩へ流れ、顔にはまだ少しだけ疲れの色が残っている。ふたりはつい先ほどまで親密な時間を過ごしていて、部屋にはまだ温かな気配が漂っていた。
律は朔の隣へ座り、温めた牛乳を茶卓に置いた。
「明日、トレーニング基地で予定があるんじゃなかったのか?」
朔が彼を見上げる。
「今夜ここに泊まって大丈夫?」
律は彼の額に口づけた。
「大丈夫。どうしても行かなきゃいけない用じゃない」
朔は眉を寄せる。
「前は大事だって言っていただろ。また僕のせいで予定を崩さないで」
律は思わず笑った。
朔は人間ではないのに、律の人間としての生活を誰より真面目に心配する。試合、練習、食事、回復計画。時には律本人よりも気にしているように見えた。
「心配するな」
律は毛布をかけ直した。
「どれだけ大事でも、おまえより大事なことはない」
「また適当なことを言う」
口ではそう言いながら、朔の目元には淡い笑みが浮かんでいた。
律が台所へ牛乳を温めに行くと、朔は何気なくリモコンを取り、テレビをつけた。
「……続きまして、三上櫂さんにご登壇いただきます」
女性司会者の少し高揚した声が流れた。
朔は画面を見た。
芸能ニュース専門チャンネルで、昨日のニューカマー賞授賞式を再放送しているらしい。
最初はただの暇つぶしだった。けれど、カメラが舞台上の受賞者を映した瞬間、朔の動きが止まった。
受賞者のそばに、普通の視聴者には見えない白い影が立っていた。
白い髪。少し細められた金色の瞳。男優の真似をするようにカメラへ向かい、ひどく雑な笑みを浮かべている。
朔の呼吸が止まる。
清司。
本当に、清司だ。
画面は次の受賞者へ切り替わる。
「続きまして、朝比奈旭さんです」
清司はまだ舞台にいた。彼はその状況を少し面白がっているように、旭の隣へ移り、相手がレンズに笑いかけるのを見てから、自分もゆっくり唇を上げた。
観客に追われ、賞を受ける男優たちが、清司のそばではただの添え物のように見えた。
朔は画面を見つめた。
記憶の奥に沈めていた景色が、一気に浮かび上がる。
隠り世。霧。荒れた原野。長い沈黙。そして、清司が自分の隣に立っていたころの姿。
彼だ。
本当に彼だった。
「朔?」
律が牛乳を持って戻ってきた。朔の表情を見て、足を止める。
「知り合いか?」
口にしたあと、自分でも余計な質問だと気づいた。
知らない相手に、朔がこんな顔をするはずがない。
律は朔と契約を結んでから、普通の人間には見えないものが見えるようになっている。テレビ画面の中で舞台に立つあの男が、人間ではないこともわかった。
朔は長いあいだ黙っていた。
やがて、軽く息を吐く。
「隠り世にいるあやかしは、ほとんどみんな寂しいんだ」
膝の上に毛布を引き寄せ、腕で自分を抱く。声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
「僕たちは人間よりずっと長く生きる。命を奪う力もある。あそこでは、誰かが誰かを気にかける必要なんてない。自分がどこから来たのか、どこへ行けばいいのかさえ、わからないまま存在しているものも多い」
「召喚されていないときは、人間と似ているかもしれない。長い時間の中で、自分と合う誰かを探している」
そこまで言って、朔は律を見上げて少し笑った。
「命を預け合う友、とでも言えばいいのかな」
律は何も言わなかった。
朔はテレビの中の清司を見つめる。
「僕と清司は、そういう関係だった」
少し間を置く。
「友人と言うには軽い。恋人とは違う。少なくとも、君に会うまで、人間が言う『愛』が何なのか、僕にはよくわからなかった」
律は唇を強く結んだ。
朔はすべてを話したわけではなかった。
現世へ召喚されることは、守護妖にとって一種の成長でもある。契約者がまだ生きているうちに、その魂を連れて帰れば、守護妖は再び隠り世へ戻り、長い存在を続けることができる。
けれど今、朔に律の魂を連れて帰ることなどできなかった。
律が死んだあと、自分が孤魂になったとしても、朔は律と過ごす時間を最後まで守りたいと思っている。
その話は、律にはできない。
「清司は僕を探している」
朔は低く言った。
律の眉間に深い皺が寄る。
「それで?」
「解決しなければならないことがある」
朔はテレビを見つめた。
「いつまでも逃げているわけにはいかない」
律は牛乳を茶卓に置いた。
カップの底がガラスに触れ、小さな音を立てた。
「戻ってくるのか?」
朔は彼を見る。
「律……」
律は遮った。
「ほかのことは聞きたくない」
目の奥に、押し殺した感情があった。
「俺が知りたいのはひとつだけだ。おまえの中で、俺はどこにいる。朔、戻ってくるのか」
朔は一瞬怔えた。
やがて、微かに笑う。
「戻れるなら、必ず戻る」
彼は言った。
「君のところに帰る。忘れたの? 僕たちには、まだ一緒にすることがたくさん残っている」
その言葉を聞いて、律の顔に落ちていた影が少し薄れた。
彼は朔の隣へ座り、その身体を抱き寄せる。
「じゃあ、待ってる」
ふたりはそのままソファに身を寄せ、テレビに映る授賞式を眺めていた。しばらくして、律の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
朔は目を開けた。
彼は慎重に律をソファへもたれさせ、自分の薄い毛布をかける。
眠る律の顔を、しばらく見つめていた。
最後に身を屈め、そっと唇へ口づける。
「できるだけ、帰ってくる」
声は風のように軽かった。
次の瞬間、朔は客厅から消えた。




