悪意
一杯目の酒が喉を落ちた瞬間、蓮の意識がまだはっきりしているうちに浮かんだ考えは、ただひとつだった。
こんな会食に来た自分が間違っていた。
「蓮、もう飲まないで。本当にだめです」
伊織の声が、水の向こうから聞こえるように遠かった。
「高村専務、蓮は酒に弱いんです。本当にもう無理です」
「いやいや、三浦君はまだ佐伯君をわかっていないな」
高村剛の笑い声は大きかった。
「見たところ、まだ飲めるじゃないか。今日はみんなで祝っているんだ。少しくらい肩の力を抜こう」
「でも――」
「はいはい、場をしらけさせない」
グラスの縁が、また蓮の前へ押し出された。
ホテル最上階のフロアは、事務所が丸ごと貸し切っていた。長いテーブルには料理が並び、壁際にはシャンパンとワインが用意されている。高村は最初に祝辞を述べ、蓮のノミネートと受賞を褒め、最近の案件が好調なことにも触れた。
そのあとは、乾杯が止まらなかった。
高村を筆頭に、制作部、宣伝部、マネジメント部の人間が次々に来る。蓮は断れるものは断ったが、断りきれないものは口をつけるしかなかった。もともと酒に弱く、授賞式で一日神経を使ったあとだったせいで、すぐに照明が揺れ始める。
伊織はずっと止めていた。
けれど、高村は今夜、簡単に引くつもりがないようだった。
「蓮!」
最後に聞こえた伊織の声は、酒の熱に飲み込まれた。
蓮が次に目を覚ましたとき、頭の中は重いもので殴られたようだった。
しばらく考えることも、起き上がることもできない。ただ天井のシャンデリアを見ていた。
それは、新しい公寓に引っ越してから、蓮がわざわざ付け替えた灯りだった。以前の部屋に残した物は多いが、この灯りだけは持ってきた。
よかった。
少なくとも、今いるのは自分の家だ。
「起きたか」
耳元で冷たい声がした。
蓮は一瞬固まり、ゆっくり横を向いた。
清司がベッドのそばに立っていた。
「……うん」
声が掠れていて、自分でも驚くほどだった。
蓮はどうにか身体を起こし、そこが自分の寝室だと確かめてから、清司を見上げた。
「昨日、いつ帰ってきた?」
額を揉みながら尋ねる。
「どうやって帰った?」
清司の口元がわずかに上がった。
「俺に聞くのか?」
「覚えていないのか」
蓮の眉が寄る。
清司はゆっくり言った。
「昨夜、おまえは会社の上層部に連れ出されかけた。あの若いマネージャーが反応しなければ、今朝このベッドで起きられたかどうかわからないな」
蓮の動きが止まった。
冗談なのか、わざと刺激しているのか、一瞬判断できない。
「ふざけないで」
蓮は顔を上げた。
「本当のことを聞いてる」
清司は答えず、部屋の扉へ目を向けた。
数秒後、扉が開く。
伊織がトレイを持って入ってきた。蓮が起きているのを見て、明らかにほっとした顔をする。
「起きたんですね」
彼は碗を蓮に渡した。
「醒酒のスープです。台所にお粥もあります」
蓮は碗を受け取った。
伊織はトレイを棚に置き、手を擦り合わせた。何かを言うべきか迷っているようだった。
「蓮、昨夜は本当にみんな驚きました」
蓮はスープを飲む手を止めた。
「僕、何かした?」
「かなり飲みました」
伊織の声が低くなる。
「止めたんですけど、途中から蓮さん自身も酔って判断が鈍っていて、何杯か受けてしまって」
蓮は目を伏せ、スープをひと口飲んだ。
思い返せば、確かに相当飲んでいた。高村のところだけでも半杯ほど飲み、その後もほかの人間に勧められて、無理に二杯近くは受けた気がする。
「ほかには?」
伊織が明らかに固まった。
視線が一瞬だけ外れる。
「いえ……ありません」
「蓮さんは飲みすぎて、それで僕が送りました」
蓮は彼を見た。
伊織は指を強く握り、それからすぐにほどいた。
「会社で少し処理することがあるので、僕は先に行きます」
蓮は追及しなかった。
「うん」
「ありがとう」
伊織は頷き、部屋を出ていく。背中には、どこか逃げるようなぎこちなさがあった。
扉が閉まってから、蓮は清司へ視線を戻した。
清司はそこに立っていた。笑っているのか、冷めた目で見ているのか、判断しづらい表情だった。
「その顔、何?」
清司は一歩近づき、蓮を見下ろした。
「信じないのか?」
「何を?」
「昨夜、あの男がおまえを酔いつぶれた状態で会場から連れ出そうとしたことを」
蓮の顔色が少しずつ沈んでいく。
清司は身を屈めた。
蓮は本能的に後ろへ退いたが、腰がベッドに当たり、座るしかなくなった。清司は片手を蓮の肩の横につき、わざと逃げ場を狭めるような距離まで近づく。
「あいつは、休ませると言いながら、おまえの襟元に手を伸ばしていた」
清司の声は低く、冷えていた。
「ずいぶん機会を選ぶのがうまい」
蓮は手を上げ、これ以上近づくなと押し止めた。
「もういい」
清司は一度蓮を見て、それ以上は近づかなかった。
けれど声にはまだ嘲りが残っている。
「おまえの小さなマネージャーも見ていた」
「ありえない」
蓮は反射的に否定した。
「伊織が見ていたなら、どうして僕に言わない?」
言った直後、蓮自身が黙り込んだ。
なぜ言わないのか。
答えは、考えれば難しくなかった。
相手は会社の上層部。こちらは、ようやく勢いが出てきたばかりの俳優。伊織は若いマネージャーで、昨夜最優先すべきことは、泥酔した蓮を安全に家へ連れ帰ることだった。高村の件を口にすれば、すべてがさらに複雑になる。
言いたくなかったわけではない。
どう言うべきか、まだ決められなかったのだろう。
そう思った瞬間、蓮の胃が強くむかついた。
清司はその顔を見て、さらに目を冷たくした。
「あいつらも、いい人間ではない」
彼は軽く言う。
「気に入らないなら、俺が片づけてやる」
蓮は彼を見て、ゆっくり息を吐いた。
本当に清司に高村を“片づけ”させたら、事態は取り返しがつかなくなる。高村は事務所の上層部だ。どれほど気持ち悪く、蓮が二度と会いたくないと思っても、彼に何かあれば会社は大きく揺れる。ほかのタレントも、伊織も巻き込まれる。最後には、もっと多くの無関係な人間が傷つくかもしれない。
「人間は、君が思っているよりずっと面倒なんだ」
蓮は襟元を整え、立ち上がった。
「気に入らないから潰す。それは解決じゃない」
彼は清司を見た。
「それは、獣と同じだ」
言い終えると、蓮は台所へ向かった。
清司はその場に立ったまま、追わなかった。
蓮の背中を見つめる瞳の色が、少しずつ沈んでいった。




