不本意な主役と、妖狐の警告
写真撮影を終えて舞台を降りるとき、蓮の胸にはまだ言葉にできない違和感が残っていた。
清司は何をしたかったのだろう。
「蓮!」
伊織が客席側から手を振っている。
蓮は賞杯を抱えてそちらへ歩いた。顔にはまだ微かな戸惑いが残っている。振り返ると、清司は相変わらず舞台の上にいた。次に上がる受賞者を待って、またレンズの前に寄るつもりなのだろう。
「蓮、今日はどうしたんですか?」
伊織は彼の上の空な様子に気づいていた。
蓮は視線を戻す。
「何でもない」
それから舞台を見た。
「僕たちはいつ帰る?」
「今でも大丈夫です」
「今?」
蓮は少し意外そうにした。
舞台上では、まだ式が続いている。ただ、会場の人は少し減っていた。先に賞を受け取った俳優たちは何人か早めに席を立ち、メディアもその動きに合わせて、後続取材や舞台裏の撮影へ向かい始めている。
蓮は少し考え、席へ戻った。
「終わるまで待とう」
伊織は反対しなかった。
その後、誰かが登壇するたび、蓮はきちんと拍手をした。カメラが自分に向いていなくても、最低限の礼儀を崩さなかった。
式は夕方まで続いた。
司会者が閉会の挨拶を終え、出席者が順に退場するころになって、蓮はようやく席を立った。一日中緊張させていた肩と背中が、その瞬間に少しだけ緩む。
会場には後片付けのスタッフと、まだ残っているいくつかの事務所関係者だけがいた。
伊織が蓮のそばへ来る。何かを思い出したように、表情が少し気まずくなった。
「蓮、会社が今夜、近くのホテルで会食を用意していて……みんなで食事をするそうです」
蓮の眉が寄る。
「それは通知? それとも、行くかどうか聞いてる?」
伊織は苦笑いをした。
「この数日、いろいろありすぎて伝え忘れていました。実は会社では前から決まっていて……」
蓮は深くため息をついた。
ほかの会食なら、必ず伊織に断らせていただろう。けれど、最近は彼の件をきっかけに会社にも新しい案件が増えている。上層部がこれを機に所属タレントやスタッフを励ましたいと言うなら、賞をもらった本人が欠席するのは、さすがに角が立つ。
「わかった」
蓮は賞杯を伊織に渡した。
「ただし、次はない。社内でも社外でも、こういう食事会はできるだけ断って。僕は好きじゃない」
「わかりました」
伊織は慌てて頷く。
蓮はもう暗くなった空を見た。
「行こう」
ふたりは会場を出て、地下駐車場へ向かった。昼間はほとんど空きがなかった駐車場も、今は多くの車が出てしまい、広く感じられた。
「場所は遠い?」
「近くです」
伊織は助手席ではなく後部座席のドアを開けた。
「高村専務が、式が終わったらそのままお連れするようにと」
高村剛は事務所の上層部のひとりだった。ふだんは所属タレントに比較的親身な顔を見せる。蓮は広告をあまり受けず、現場か家で台本を読むことが多いため、彼と深く関わったことはなかった。
「わかった」
蓮は車に乗り込む。
そのとき、通路の角へ無意識に目を向けた。
やはり、そこに白い影が立っている。
次の瞬間、車窓の外を微風が過ぎ、清司が蓮の隣に座っていた。
「今日、何をしていたんだ?」
蓮は声を落として尋ねた。
清司は横目で彼を見て、意味ありげに笑っただけだった。答える気はないらしい。
蓮は唇を尖らせたが、それ以上は追及しなかった。
「今夜は会食に行く。すぐには帰らない」
清司の眉が上がる。
「おまえ、そういう集まりは嫌いだろ」
「必要な付き合いは避けない」
清司の表情が、少しだけ不機嫌に傾いた。
彼は蓮を見下ろす。
「俺は用がある」
蓮の動きが止まった。
清司は立ち上がり、車内で姿を薄めていく。
「ひとりで気をつけろ」
その言葉を残し、彼は消えた。
蓮は空になった隣の席を見つめ、少しのあいだぼんやりした。
また朔を探しに行ったのだろうか。
宵宮朔。
蓮にとっては、まだ遠い名前だった。けれど、清司がその名のために自分のそばを離れるたび、説明のつかない不快感が胸の奥に沈んだ。
「蓮? 蓮?」
前の席から伊織が何度も呼んでいた。
蓮ははっと我に返る。
「ん?」
伊織はバックミラー越しに、心配そうに彼を見ていた。
「具合、悪いですか?」
蓮は首を横に振った。
「大丈夫。少し考え事をしていただけ」
車はもうホテルの地下入口に着いていた。
「着いたの?」
「はい」
伊織は少し迷った。
「どうしても行きたくないなら、今から高村専務に言います」
蓮にも、一瞬だけ頷きたい気持ちはあった。
けれど、会食が始まる前から帰れば、社内の人間はそれぞれ勝手に考えるだろう。蓮は自分の評判に強く執着していないが、伊織を板挟みにしたくはなかった。
「大丈夫」
彼は言った。
「上がろう」
車を降りると、少し離れたところから手を振る人物がいた。
「三浦! やっと来たか」
伊織は振り向いた。
「あれは津田航さんです。早川静香さんのマネージャーです」
彼は蓮に小声で説明する。
「早川さんは最近かなり勢いがあります。映画を何本か撮って、大きな交流展にも参加していました。蓮の話題が大きくなければ、今ごろ会社で一番注目されていたのは彼女だと思います」
蓮は伊織の視線を追った。
津田のそばには、独特の雰囲気を持つ若い女優が立っていた。派手な美人ではないが、どこか勘の鋭そうな、いたずらっぽい空気がある。
早川静香。
蓮はその名前を覚えた。
「津田さん、今日は遅かったですね」
伊織が笑って声をかける。
「おまえも遅いだろ」
津田は軽く目を転がし、それから蓮に笑みを向けた。
伊織はすぐに説明した。
「こっちは理由があります。蓮の授賞式に付き添って、終わってから直接来たので」
授賞式、という言葉に、静香が顔を上げた。視線が蓮に落ちる。
その目には、少し驚きがあった。
目立って自分を売り込むタイプには見えないのに、彼は授賞式帰りだという。
津田も一瞬だけ固まり、すぐに微妙な表情で静香を見た。
彼らは最近あまり会社に戻っていなかった。静香は映画を撮り終え、交流展にも行き、外部のブランドからも声がかかり始めていた。高村が今夜、社内会食を開くと聞いたとき、津田はこれが静香の帰還を歓迎する場だと思っていた。
けれど、どうやら違う。
今夜の本当の主役は、佐伯蓮なのかもしれなかった。
津田はすぐに表情を整えた。
「そうか。じゃあ一緒に行こう。みんな、もう待ってるだろうし」
「行きましょう」
エレベーターの扉がゆっくり閉まる。
蓮は隅に立ったまま、清司が去り際に言った「気をつけろ」という言葉を思い返していた。
その忠告が、数時間後に別の形で現実になるとは、まだ知らなかった。




