フラッシュの光と、君の気配
「蓮……」
三浦伊織は蓮のそばに立ったまま、少し離れた場所から向けられる視線に気づいていた。
地下駐車場は、妙にがらんとしていた。こちら側にいる蓮と伊織を除けば、前方にいるのは朝比奈旭と高橋真紀だけだった。四人が白い照明に照らされ、誰も先に動かないその光景は、まるでこれから何かが始まる前の対峙のようだった。
朝比奈旭は蓮よりも芸歴が長く、経験もある。所属事務所も蓮の小さな事務所よりはるかに強い。マネージャーにしても、伊織は真面目だがまだ若く、高橋真紀は業界でも知られたチーフマネージャーだった。もし蓮と旭が完全に対立すれば、蓮にとって不利なのは明らかだった。
「大丈夫」
蓮は視線を戻した。
ここは公共の場だ。今日の会場にはメディアも記者も各社の関係者もいる。たとえ朝比奈旭がどれほど不満を抱えていても、この場で取り乱すほど愚かではないだろう。
蓮は伊織を見た。
「車は停めた?」
伊織は頷いたが、目はまだ旭のほうへ流れていた。
「停めました」
朝比奈旭は明らかに蓮たちより先に着いていた。それなのに、まだその場を動かない。こちらが近づくのを待っているのは、考えるまでもなかった。
蓮にはわかっていた。
だからこそ、避けるつもりはなかった。
「行こう」
「でも……」
伊織が口を開く前に、蓮はもう歩き出していた。
「先に行く」
蓮は逃げることが好きな人間ではない。相手が自分を待っているとわかっていても、わざわざ道を変えるような性格ではなかった。伊織は仕方なく後を追いながら、いつでも蓮の前に出て言葉を遮れるように身構えた。
蓮と伊織が近づくと、旭と話していた真紀がゆっくり振り向いた。蓮がその横を通り過ぎようとした瞬間、彼女は半歩前へ出て、ちょうど進路を塞いだ。
伊織の眉がわずかに寄る。
真紀の立場なら、わざわざ自分が出てくる必要などない。それでもここで足を止めさせたということは、彼女が今、朝比奈旭のために蓮の勢いを一度押さえておきたいと思っているということだった。
蓮はただ、穏やかに笑った。
そして自分から手を差し出した。
「高橋さん、お疲れさまです」
真紀は差し出された手を見下ろした。
蓮の指は長く、骨ばっていて、態度は礼儀正しい。どこにも責める隙がない。数秒置いてから、真紀はその手を軽く握った。
「お疲れさま」
彼女の笑みは安定していた。
「今回は二部門でノミネートされたそうね。まずは、おめでとう」
「ありがとうございます」
蓮はすぐに手を離した。
「朝比奈さんも、おめでとうございます。事務所と確認することがありますので、僕たちは先に失礼します。また機会があれば」
返事を待たず、蓮は伊織を連れて通路へ向かった。
朝比奈旭の顔色は、あまりよくなかった。
真紀は蓮の背中が通路の奥に消えるまで見送った。眉先が、ほんの少しだけ上がる。
立場を別にすれば、彼女は佐伯蓮という人間をかなり評価していた。冷静で、抑制が利き、反応も早い。引くべき場面と前に出るべき場面をわかっている。顔と演技だけではなく、場の空気を読んで制御できる俳優だった。
彼女の手元にいる、少し売れただけで自分を特別な人間だと思い込んでいる一部のタレントたちより、蓮のほうがよほど磨きがいのある素材に見える。
惜しい。
どれほどいい素材でも、自分の事務所の資源を脅かすなら、押さえ込まなければならない。
人は利のために動く。
彼女も例外ではなかった。
「さっき、あいつにそんなに話す必要あった?」
朝比奈旭が不機嫌そうに低く言った。
真紀は彼を一瞥した。
今回は、叱ることすらしなかった。そのまま蓮が消えた通路のほうへ歩き出す。
授賞式はすぐに始まった。
今回のニューカマー賞は、業界最高峰というほどではないが、若手俳優にとっては十分に意味のある賞だった。会場はきちんと整えられ、舞台の両脇には花が飾られ、客席の椅子には深紅のカバーが掛けられている。
各事務所のスタッフ、同行マネージャー、メディア関係者、カメラマン、芸能記者が後方と両脇を埋めていた。カメラはいたるところに設置され、いつでもフラッシュが光る準備をしている。
ここでは、疲れた顔も、退屈そうな瞬きも許されない。少しでも表情を崩せば、翌日には「某俳優、授賞式で不機嫌顔」といった記事にされる可能性があった。
蓮は中央の席にこだわらなかった。
伊織に案内され、端に近い席へ腰を下ろす。会場を一通り見回したあと、少し退屈そうに目を伏せた。
この場では台本を読むこともできない。スマホを見ることも避けたほうがいい。だから蓮は、司会者の開会挨拶を聞き、次々と呼ばれる名前を待つしかなかった。
「蓮、そろそろです」
伊織が小声で囁いた。
蓮は少し不思議そうに彼を見た。
「結果って、先にわかるの?」
「表向きには出ません」
伊織はさらに声を落とした。
「でも、各事務所はだいたい事前に把握しています。今日は普通の記者だけじゃありませんから。受賞者の状態が悪かったら、すぐ記事にされます」
蓮が何か言おうとしたとき、壇上の司会者が次の名前を読み上げた。
「続きまして、朝比奈旭さんです」
拍手が一斉に響き、伊織の最後の言葉をかき消した。
蓮は反射的に舞台を見上げた。
旭は黒い正装を着ていた。顔の傷はメイクでかなり薄く隠されている。彼は賞杯を受け取り、準備された受賞コメントを述べ、客席へ丁寧に頭を下げた。最後にカメラへ向ける笑みは、完璧と言っていいほど整っている。
その瞬間、蓮の視界に白い影が入り込んだ。
清司だった。
彼は舞台の上に立ち、ちょうど朝比奈旭の隣にいる。
普通の人間には見えない。
けれど蓮には、はっきり見えた。
高位の妖狐は旭の真似をするように、カメラへ向かって極めて雑な笑みを浮かべていた。鋭いほど整った顔立ちなのに、その表情には「面倒くさい」と大きく書いてある。
蓮は一瞬、呆気に取られた。
そして、思わず吹き出した。
「ぷっ……」
伊織がすぐに振り向く。
「蓮?」
蓮は我に返り、慌てて首を振った。
「何でもない」
再び顔を上げると、清司は今度は女性司会者の隣へ移動し、彼女の持つ台本を覗き込んでいた。まるで、本当に人間の授賞式の仕組みを研究しているようだった。
蓮は無言になった。
この妖狐は、いったい何をしているのだろう。
清司は蓮の視線に気づいたらしく、顔を上げて目を合わせた。それから軽く眉を上げる。まるで、ここにいる、とわざと知らせているようだった。
長い紹介と進行のあと、司会者がようやく蓮の名前を呼んだ。
「続きまして、佐伯蓮さんです」
会場の視線が、まず中央付近へ向かった。
しかし、そこから誰も立たない。
端の席から蓮が静かに立ち上がり、客席へ軽く会釈してから、ようやくカメラが一斉に彼へ向けられた。
蓮の足取りは安定していた。
舞台中央へ進み、賞杯を受け取り、短い受賞コメントを述べる。内容は簡潔で、礼儀正しかった。彼は劇組、観客、事務所、スタッフへ感謝を伝えたが、最近の黒い噂には一言も触れなかった。
記念撮影の時間になると、蓮は賞杯を抱え、一番近いレンズへ視線を向けた。
そのとき、横に誰かが立った気配がした。
蓮が横を向こうとした瞬間、耳元で清司の声がした。
「こっちを見るな」
低く、少し気だるい声だった。
「レンズを見ろ」
蓮の睫毛がかすかに揺れる。
それでも彼は、言われた通り前を向いた。
「――カシャ」
フラッシュが落ちた。
写真に写ったのは、佐伯蓮ただひとりだった。
それでも蓮は知っている。
あの瞬間、白銀清司は確かに自分の隣にいた。




