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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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授賞式へ

そのキスは、落ちてきた雪の欠片みたいに軽かった。


 蓮は一瞬、何が起きたのかわからなかった。


 数秒後、ようやく理解する。


 この妖狐は――。


 また、自分が油断した隙にキスしたのだ。


 蓮が清司を押しのけようとした瞬間、視線が彼の胸元で止まった。


 鋭い刃が、清司の胸を貫いていた。


 蓮の瞳孔が縮む。


「清司!」


 清司は蓮の視線を辿り、ゆっくり振り返った。


 いつの間にか、低級妖怪が彼の背後に立っていた。顔は醜く歪み、身体は霧のように半透明で、手にした刃はまだ清司の身体に刺さっている。


 清司の目が一瞬で冷えた。


 彼は振り向きざま、稲妻のような速さで腕を伸ばし、その妖怪の頭を掴んだ。


 長い指が、歪んだ顔を覆う。


 次の瞬間、耳障りな悲鳴が響いた。


 妖怪の顔は清司の掌の中でねじれ、潰れ、数秒後には黒い霧となって空気に溶けた。


 蓮はさっきのキスどころではなくなった。


「大丈夫?」


 ほとんど本能的に一歩近づく。


「手当ては?」


 奇襲への怒りで冷え切っていた清司の苛立ちは、蓮の目に浮かんだ緊張を見た瞬間、なぜか少し薄れた。


 蓮が伸ばした手は、途中で止まった。


 触れたい。


 けれど傷口に触れるのが怖い。


 結局、その手はゆっくり下ろされた。


 清司はその手を見て、胸の中に奇妙な感覚が生まれるのを感じた。


 どうして急に、こんなにおかしくなっているのだろう。


 蓮は顔を上げる。


「何を笑っている」


「何でもない」


 清司はいつものように淡々と答えた。


 胸に残っていた赤い痕を手でひと撫でする。


 傷は、拭き取られた墨のように消えた。


「今のは何?」


「ただの妖怪だ」


 清司の声は軽い。


「昔の仇が寄越したんだろう」


 蓮はぞっとした。


 刃が清司の身体を貫くのを目の前で見た。たとえ彼が人間ではないと知っていても、あの視覚的な衝撃は簡単には消えない。清司がただの人間だったら、こんな襲撃を受け続けて、とっくに壊れていただろう。


「こういうこと、よくあるの?」


「よくあるほどではない」


 清司は何でもないことのように言う。


「低級すぎて、俺には大した傷にもならない。せいぜい気分が悪くなるくらいだ」


 あまりにも傲慢な言葉だった。


 けれど、彼がこれまで怪異を片づけてきた姿を思うと、蓮はその言葉を否定できなかった。


「蓮?」


 玄関の外で、伊織の声がした。


「鏡の前で何してるんですか?」


 蓮ははっとした。


 今の出来事があまりに早すぎて、清司にキスされたことも、伊織がもう玄関先まで来ていることも、ほとんど忘れていた。


「咳払い」


 彼は軽く咳をして、適当に理由を作った。


「何でもない。さっき、少し足をひねっただけ」


 靴を履くために顔を下げ、靴箱の上から革靴を取るついでに、清司を一度睨んだ。


 清司には、まったく反省の色がない。


 それどころか、蓮に向かってやけに腹立たしい目つきを投げてから、先に玄関を出ていった。


 伊織はすぐしゃがみ込んだ。


「足をひねった? ひどいですか? 薬、先に使います?」


「大丈夫」


 蓮は靴を履き終えた。


「行こう」


 車はすでに下に止まっていた。


 伊織が後部座席のドアを開ける。


 蓮はすでに中に座っている清司を見て、動きを一秒止めた。結局、何も言わずに身をかがめて乗り込む。


「どうして君までついてくる」


 蓮は声を低くした。


「撮影でもファンミーティングでもない。授賞式だ。あそこに宵宮朔はいない」


 清司は彼を一瞥した。


 答えない。


 二人は一路、黙ったままだった。


 運転する伊織だけが、前の席で式典の流れを説明し続けていた。蓮は時々短く返事をし、そのたびまた静かになる。


 大劇場は新しいマンションからそれほど遠くなく、二十分ほどで到着した。


 車が着いた時、会場の外はすでに人で埋め尽くされていた。


 今回出席する芸能人とメディアは多く、場所も人通りの多い区域だった。主催者側は警察と調整し、外には柵と専用通路を設けていた。ファンは柵の外に隔てられ、次々と入ってくる車を見つめている。好きな俳優が現れるたびに、歓声がすぐに上がった。


 伊織は前の車について駐車場の方向へ向かい、わざと少しだけ窓を下げた。


 すぐに、目のいいファンが後部座席の蓮に気づいた。


「佐伯蓮!」


「蓮君! こっち見て!」


「きゃあああ――!」


 蓮は一瞬固まった。


 イヤホンを外し、窓の外を見る。


 フラッシュが続けて光った。


 ファンが写真を撮っていることに気づき、彼は小さく笑って手を振った。


 歓声はさらに大きくなる。


 清司は窓の外へ目を向けた。


 顔を赤くし、今にも泣きそうなほど興奮している若い女性たちが、何度も蓮の名前を叫んでいる。


 彼は眉を寄せた。


「あいつら、うるさい」


 蓮はその不機嫌な顔を見た。まるで無理に起こされた大少爷のようで、こちらまで苛立ってくる。


「僕は君に来てくれなんて言ってない」


「ふん」


 清司は鼻を鳴らし、また以前のように車の中から姿を消した。


 蓮はもう気にしなかった。


 今はもっと大事なことがある。


「蓮さん、何かありました?」


 伊織がバックミラー越しに見る。


「なんだか、機嫌が悪そうです」


 蓮は顔を上げ、笑って首を横に振った。


「何もない」


「先に降りよう」


 車は地下駐車場へ入った。


 外の応援の声は、まだかすかに届いている。


 伊織が何か言おうとした瞬間、ふと蓮の腕に軽く触れた。


 蓮は彼の視線を追う。


 少し先に、白いスポーツカーが止まっていた。


 車のそばに、一人の男と一人の女が立っている。


 男は朝比奈旭。


 女は高橋真紀だった。


 旭の顔の包帯はもう取れていた。傷はそこまで深刻ではなく、早く治すために少し大げさに巻いていただけらしい。近くで見るとまだ痕は残っているが、注意しなければ目立たない。


 彼は蓮のほうを見つめていた。


 目つきは暗く沈んでいる。


 高橋真紀はその視線に気づき、眉を寄せて低く叱った。


「今、彼を見て何になるの?」


 旭は何も言わなかった。


 高橋真紀の声は小さいが、十分に冷たかった。


「彼のほうが今のあなたより注目されている。それは事実よ」


「あなたが努力をしないなら、市場から押し出されても何も不思議じゃない」


「会社がまだ救う気でいるうちに、これ以上馬鹿なことはしないで」


 旭の顔色は悪かった。


 以前の彼なら、イベントに出るたび、外は必ず彼のファンと応援の声で埋まっていた。だが今日、入場時に聞こえたのは、道の端から上がった数えるほどの声だけだった。


 そして今、柵の外で響く歓声は、ほとんどが佐伯蓮の名前を呼んでいる。


 後ろから別の車が駐車場へ入ってきた。


 外の応援の声が、また整った波のように爆発する。


「蓮君!」


「佐伯蓮!」


「ずっと応援してる!」


 その声は駐車場の入口を越え、旭の耳にはっきり届いた。


 彼の顔色は完全に暗く沈んだ。


 一か月ほど前まで、佐伯蓮は自分の相手役に過ぎない俳優だった。


 今は、誰もが蓮の名前を呼んでいる。

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